欧州航路 - 大正期 戻る

ロンドン線 日本郵船(株) 明治後期大正期昭和初期戦後占領期海運再建期海運集約期
欧州航路の増強のために発注された香取丸型と諏訪丸型合計5隻は大正3年(1914)末までに就航した.第1次世界大戦勃発後も日本郵船は戦禍の影響が大きい欧州航路の継続を決定したが大正4年(1915)12月21日に八坂丸がポートサイド付近でドイツ潜水艇により撃沈されたため南ア喜望峰を迂回させることとした.さらに同9月には逓信省の認可を受けて欧州線の優秀船を保護するために就航船の転配を実施し,賀茂丸,熱田丸,香取丸,鹿島丸,諏訪丸および伏見丸の6隻を順次米国航路へ入替え,また北野丸は安藝丸に替わり濠州航路に就航した.この措置は大正11年(1922)3月に全船が欧州航路へ復帰するまで続いた.大戦中わが国海運界は未曾有の利益をあげたが日本郵船にとって幸いだったのは大正2年(1913)に欧州航路用に6隻発注したT型貨物船が順次竣工し臨時船として欧州航路へ就航して軍需品,食料品等輸送に対応できたことである.大戦後の大正9年(1920)2月に喪失船の補充のため1万総トン級の貨客船3隻(箱根丸,榛名丸,筥崎丸)を三菱造船所に発注,さらに同型のストックボート1隻(白山丸)の購入を決定した.これら4隻新造船はH級船と呼ばれ大正12年(1923)6月までに欧州線に就航した.就航船は他に賀茂丸,熱田丸,北野丸,香取丸,鹿島丸,諏訪丸および伏見丸の合計11隻により2週1回のサービスを行った.なお当航路は明治43年(1910)1月より遠洋航路補助法による助成を受けていたが大正10年3月末に満期となったのを機会としてこれを辞退し4月からは郵便定期航路命令による補助金を受けた.
1914.12.10(大3)臨時船徳島丸,復航の途次邦船として初めてパナマ運河を通過[船]徳島丸

徳島丸 Tokushima Maru (1913)
1915.12.21(大4)八坂丸,ポートサイド付近でドイツ潜水艦により撃沈[船]八坂丸

八坂丸 Yasaka Maru (1914)
1915.12.31(大4)横濱出航の三島丸より航海の安全上,航路を南ア喜望峰を迂回
1917.3.20(大6)横濱出航の宮崎丸から船体に迷彩を施し武装を行う
1917.5.28(大6)神戸出航の香取丸を第1船として隔航リバプール寄港開始[船]香取丸

香取丸 Katori Maru (1913)
1917.8(大6)危険区域航行の際には連合国の艦艇の護衛を受けることとなる
1918.12.5(大7)スエズ経由に復帰,第1船加賀丸横濱出航

スエズ運河通過中の欧州航路船
1919.3(大8)リバプール寄港廃止
1926.4(大15)逓信省命令航路.郵便定期航路横濱倫敦線.[港]横濱/神戸/上海/香港/シンガポール(新嘉坡)/コロンボ(古倫母)/スエズ(蘇士)/ポートサイド(坡土西)/マルセイユ(馬耳塞)/ロンドン[航]週2回以上(年26回以上)[船]箱根丸,伏見丸,白山丸,筥崎丸,諏訪丸,榛名丸,香取丸,鹿島丸,熱田丸,賀茂丸,北野丸[命]1926.4(大15)~1929.3(昭4)

諏訪丸 Suwa Maru (1914)

豐岡丸 Toyooka Maru (1915)

箱根丸 Hakone Maru (1921)
リバプール線 日本郵船(株) 大6.5.28(1917)開設昭15.6(1940)以降休航
英国西岸/東洋間はBlue Funnel Line(青筒社)が長年,積荷を独占していたが日本郵船は日露戦争頃よりこの航路への参加を画策してきたものの容易にその機会に恵まれなかった.第1次世界大戦勃発後,英国政府による船舶管理のため船腹不足をきたしたBlue Funnel Lineから日本郵船の欧州線就航船を英国西岸に寄港させるよう申入れがあったため日英両国政府,逓信省と協議の上,日本郵船は欧州線定期船をロンドンとリバプールへ交互に寄港させることが決定された.
1917.5(大6)往航の第1船香取丸神戸港を出航,復航は同5月に熱田丸をロンドンで揚荷後,バーケンヘッドに回航[航]4週1回[船]香取丸,熱田丸,他4隻

熱田丸 Atsuta Maru (1909)
1920(大9)7隻に増便
ハンブルグ線 日本郵船(株) 大8.10.16(1919)開設昭14.8(1939)休航
第1次世界大戦以前よりドイツ諸港に定期寄港の希望を持っていた日本郵船は休戦後の欧州船腹不足のため欧州線の臨時船をハンブルグまで延航させることとし,同時に欧州同盟と折衝して極東向けヨーロッパ大陸積取り無制限と年40回の英国積取りの発航権を得た.
1919.10.16(大8)第1船でらごあ丸,横濱を出航[航]4週1回[船]使用船6隻

でらごあ丸 Delagoa Maru (1919)
ポートサイド線 日本郵船(株) 大6.8.20(1917)開設-大7.12(1918)廃止
第1次世界大戦中,地中海派遣艦隊への軍需品,交代兵輸送のために大正6年(1917)8月20日開設.
1917.8.20(大6)第1船鎌倉丸,神戸出航[港]復航は荷物の都合によりボンベイ,シンガポールへ寄港[航]約1ヶ月1回[船]富山丸,阿波丸,敦賀丸,甲谷陀丸,春日丸,他用船等

富山丸 Toyama Maru (1915)
1918.11.12(大7)最終船まやち丸(用船)神戸出航[船]まやち丸
1918.12(大7)欧州航路定期船のスエズ経由が再開されたのをもって廃止
地中海線 日本郵船(株) 大7.3.31(1918)開設-大8.4(1919)廃止
フランス行き貨物輸送のためにポートサイド線と連絡して大正7年(1918)3月31日に開設,汽船数隻でポートサイド/馬耳塞(マルセイユ)間を往復した.
1918.3.31(大7)マルセイユ出航の亞細亞丸を第1船として開設[船]亞細亞丸(用)

第一札幌丸 Sapporo Maru No.1 (1890)
旧名亞細亞丸
欧州航路・横濱倫敦線 大阪商船(株) 大7.12(1918)開設-大8.12(1919)横濱欧州線-大9.3(1920)日本欧州線-昭8.3(1933)休止
昭13.7(1938)再開
大阪商船の欧州航路は大正4年(1915)馬來丸,印度丸が困難に見舞われながら試験航海したのに始まる.当時の欧州極東同盟は新規加入を拒み大正8年(1919)1月に至ってようやく大阪商船の同盟加入が認められた.
あるたい丸で開始された大阪商船の横濱/倫敦(ロンドン)線は第1次世界大戦後,安土府(アントワープ),漢堡(ハンブルグ)に延航され日本欧州線と改称されている.この航路は昭和6年(1931)の郵商協調により復航は日本郵船の運航となりその後昭和8年(1933)3月から配船が保留された.
1918.12.9(大7)第1船あるたい丸,横濱を出航[港]往航:神戸/門司/上海/香港/シンガポール/コロンボ/ポートサイド,復航:フィラデルフィア(費府)/ニューオーリンズ(新王倫)/バルボア/タコマ

馬來丸 Malay Maru (1905)

ぱりい丸 Paris Maru (1922)
欧州航路・孟買馬耳塞線 大阪商船(株) 大7.4.13(1918)開設-大7.9.16(1918)横濱馬耳塞線-大9.3(1920)休止
第1次世界大戦による地中海航路の船腹不足による馬耳塞航路開設の要望に対し日本郵船と協定の上,使用船3隻毎月1航海のサービスで開設.盟外船として運航された.
1918.4.13(大7)第1船呂宋丸,神戸出航[港]横濱/神戸/門司/上海/香港/シンガポール/ヂブチ/スエズ/ポートサイド/マルセイユ

呂宋丸 Luzon Maru (1902)
1918.5(大7)第2船襟裳丸,神戸出航[船]襟裳丸
1918.6(大7)第3船西貢丸,神戸出航[船]西貢丸

西貢丸 Saigon Maru (1901)
1918.9.16(大7)第4船北京丸,神戸出航から横濱馬耳塞線と改称.孟買(ボンベイ)馬耳塞(マルセイユ)間は孟買ゼノア線を馬耳塞迄延航[港]神戸/門司/上海/香港/シンガポール/コロンボ/ヂブチ/スエズ/ポートサイド/(アレキサンドリア)[航]月1回[船]北京丸,呂宋丸,襟裳丸,武州丸,がんぢす丸,南京丸

北京丸 Peking Maru (1914)
1919(大8)[船]いんだす丸,呂宋丸,印度丸,八雲丸,爪哇丸
1920.3(大9)内地帰着の印度丸を終航として休航
瓜哇欧州線 大阪商船 大9.8.19(1920)開設-大10.4.5(1921)休航
第1次世界大戦後,瓜哇欧州同盟(瓜哇漢堡同盟)が組織され,わが国船社は容易に加入できなかったが大阪商船はBlue Funnel Line(青筒社)社長来日を契機として同盟加入交渉をおこない大正9年(1920)5月に加入に成功した.しかし業績不振により大正10年(1921)には休航となった.
1920.5.12(大9)瓜哇欧州同盟加入
1920.8.19(大9)第1船印度丸スラバヤ出航[港]{往航}スラバヤ/サマラン/バタビア/パダン/コロンボ(古倫母)/ポートスーダン/スエズ(蘇士)/ポートサイド(坡土西)/ジェノヴァ/マルセイユ(馬耳塞)/アントワープ(安土府)/ロッテルダム/ハンブルグ(漢堡){復航}ハンブルグ(漢堡)/アントワープ(安土府)/マルセイユ(馬耳塞)/ジェノヴァ/ポートサイド(坡土西)/スエズ(蘇士)/バタビア/スラバヤ[航]2ヶ月1回[船]印度丸他2隻

印度丸 Indo Maru (1897)
1920.9(大9)第2船馬來丸就航[船]馬來丸
1920.10(大9)第3船瓜哇丸就航[船]瓜哇丸
1921.4.5(大10)瓜哇丸のスラバヤ着後,日本内地へ回航し航路休止
イタリア/ニューヨーク航路 Kライン 大11.5(1922)開設昭3(1928)川崎汽船配船を中止
Kラインは安定した定期航路への進出を計画していたが大正11年(1922)5月にレモンを主要積荷とするイタリア/ニューヨーク航路を開設した.復航は不定期配船とし特定船舶の張付就航をおこなわなかった.
1922.5(大11)盟外船として第1船けいぷたうん丸,シシリー島メッシナを出航.ニューヨーク向けの片道定期航路[港]ジェノバ/レグホーン/ナポリ/メッシナ[航]1ヶ月2回[往荷]レモン

けいぷたうん丸 Capetown Maru (1919)
1922(大11)レモン出回り期が終了する9月以降には順次寄港地を拡大した[港]マルセイユ(馬耳塞)/バレンシア/ガンディア/デニア[往荷]雑貨,玉ねぎ,かたつむり
1922(大11)東航でフリーとなった船舶で寄港地を拡大し集荷[港]アレクサンドリア/スミルナ/ベイルート/サロニカ/ピレエフス[往荷]オリーブ,煙草,なつめ
1926.7.10(大15)西イタリア/北米運賃同盟に加入
アレキサンドリア/黒海航路 Kライン 大12(1923)開設-同年末配船を中止
Kラインは大正11年(1922)末ころからアレキサンドリア/黒海方面に中型船を不定期配船していたが運航を有利にするため大正12年(1923)初頭に定期航路化した.
1923(大12)定期航路化[港]アレキサンドリア/ポートサイド/ハイファ/ベイルート/スミルナ/ピレエフス/サロニカ/コンスタンチノープルを経てスリナ/ガラツ/コンスタンツァ[航]2ヶ月3回[往荷]穀物類(黒海方面)
1923.9(大12)関東大震災による日本近海の市況高騰のため適格船が日本近海へ転配されたのを契機として1年たらずで廃止
ニューヨーク/ハンブルグ航路 Kライン 大13.1(1924)開設昭4.1(1929)川崎汽船配船を中止
英国のサー・ウィリアム・リアドン・スミス会社が経営していたニューヨーク/ハンブルグ航路を代理店とともに継承して大正13年(1924)初めから盟外船として運航を開始.
1924.1(大13)ニューヨーク発の第1船として國際汽船のからち丸,ハンブルグからは智利丸が就航.毎月両社2隻の発航[航]1ヶ月1回[船]ていむす丸,瑞典丸,喜福丸,びくとりあ丸(年間2乃至5往復)[往荷]自動車,同部品,復興資材[復荷]欧州特産物,カリウム塩,カオリナイト,チャイナクレイ

からち丸 Karachi Maru (1919) City of Vancouver Archives
欧州/日本航路 Kライン 大11.1.21(1922)開設昭8以降川崎汽船配船を中止
Kラインは英国が主導権を握る閉鎖的な同盟の条件に相当な不満をもちながらも妥協し,日本郵船の取り扱いのもとに欧州より日本への復航のみ年間9航海の配船を実施した.國際汽船のKライン離脱後の年間配船数は川崎汽船3航海,國際汽船6航海とした.
1922.1.21(大11)第1船國際汽船のぼすとん丸,ハンブルグを出航[港]ハンブルグ/ロッテルダム/ブレーメン/アントワープ/ポートサイド/シンガポール/香港/基隆/上海/門司/神戸/大阪/横濱[船]べにす丸等
1922.5(大11)第3船べにす丸欧州出航

べにす丸 Venice Maru (1921)
1922(大11)大正11年度配船数7隻(63,009G/T)
1923(大12)大正12年度配船数9隻(82,473G/T)
1924(大13)大正13年度配船数8隻(76,168G/T)
1925(大14)大正14年度配船数9隻(81,644G/T)
1926(大15)大正15年度配船数9隻(81,721G/T)
欧州航路 三井物産(株)船舶部 大正期-昭和初期
大正2年(1913)7月以降,燐鉱石の積取に欧州(エジプト東部サファガ)/日本間に数隻配船された.他にマカテア島(ポリネシア),クリスマス島(オーストラリア),アンガウル(パラオ)と順次進出した.
1913.7(大2)[港]往航:内地/スエズ/ダンケルク/アントワープ 復航:ポートセッド/サファガ/内地[船]萬田山丸[往荷]北海道楢材[復荷]サファガ港燐鉱石
1913.8(大2)以降,サファガ燐鉱石積取配船開始[港]サファガ[船]金華山丸,天拝山丸,萬田山丸[復荷]燐鉱石

萬田山丸 Mandasan Maru (1901)
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