八馬兼介 - 小史 戻る

八馬兼介関連の会社
八馬汽船の創業者八馬兼介に関連する船舶所有者名義は八馬兼介(初代),その養子八馬永蔵,八馬兼介(大正6年,永蔵の息子の栄之助が兼介を襲名),大連置籍船のために設立した合資八馬商会(大正2年設立),多聞汽船合資(大正11年設立)などを見い出せる.
多聞丸 Tamon Maru
多聞丸 Tamon Maru (1883)
八馬汽船の創業者八馬兼介は天保10年(1839)に生まれ慶応4年(1868)には米穀問屋「八馬商店」を始めた.八馬家の歴史について社史には次のように記述されている.「平安時代末期から,鎌倉,室町時代にかけて,西宮神社の祭儀として御神幸という行事が行われ,これが馬氏の諸家の起源と関係が深い.御神幸は毎年旧暦8月22日(新暦9月中旬)御神霊を奉じたみこしを船に乗せて兵庫の和田岬まで進み,帰りは陸路をとり,6里の沿道は見物の町民であふれるばかりで,この中を馬に乗った武者姿の一群がかっ歩したが,これが馬氏の一族であった.馬氏の諸家はその他の神事を手伝う格式ある家柄として,町内の世話役でもあった.馬氏の諸家は次の15家を数えたといわれる.
 辰馬,葛馬,乙馬(音馬とも書く),小上馬,善茂馬,一馬,六馬, 七馬,八馬,十馬, 他人足馬(与三太郎馬とも書く),与四郎馬,大 黒馬,大徳馬,小唐馬」
八馬家は攝津國西宮において古くから酒造家と関係が深く,和船の時代から酒造用の米穀の売買,運送,酒類の運送を家業としていた.明治11年(1878)には兵庫県西宮に船舶部を設け帆船西尾丸を購入して海運業に乗り出し阪神〜東京間の運航にあたり続いて大國丸,黄元丸などの帆船を購入した.明治23年(1890)には初の汽船MELITAを購入して多聞丸(1)と改名した.日清日露の両戦争中はこれらの所有船を提供して軍需品の輸送にあたった.日清戦争の時期に豐瑞丸,豐光丸を購入した.特に豐瑞丸は購入時の船齢が36年という老朽船であった.八馬兼介に限らず当時の海運業者は船齢が20年以上も過ぎた老朽船を運航していた.また各社の船舶は日清戦争当時に大半を占めていた鉄船が,大正初期には半分以上が鋼船になっている.日露戦争直後に八馬兼介は4隻の汽船を購入しそれぞれ第二多聞丸,第三多聞丸,第五多聞丸(1),第六多聞丸(1)と命名した.何れも船齢が21年以上の中古船であった.
第三多聞丸 Tamon Maru No.3
第三多聞丸 Tamon Maru No.3 (1882)
この時期は不況のために各船主とも係船が増加した.政府は中古船輸入の防止のために明治44年(1911)7月17日を実施期日として関税を改正することにしたが,改正以前に輸入する社外船主が多く合計47隻の関税改正見越し船舶が輸入された.八馬兼介はこのときに5隻を購入して,第六多聞丸(1),第八多聞丸(1),第一多聞丸(1),第十一多聞丸,第十二多聞丸(1)と命名した.船名の番号はどのような根拠で付けられているのかわからないが,「八」の次に「一」がきたのは,恐らく多聞丸(1)が明治41年(1908)に沈没しているからではないかと思われる.続いて第一次世界大戦前後までの期間に大山丸,久保丸,勝立丸,江陽丸,金澤丸の5隻を購入した.船舶の輸入関税対策のために関東州(大連)と朝鮮(仁川)に船籍を置くことが考え出された.これらの置籍船は内地の不開港地には入港することができなかったが,遠洋航路船としては問題はなく輸入税が免除されるばかりか登記手続きも簡単で諸税費の合計は内地の6分の1以下ですんだという.
江陽丸 Koyo Maru
江陽丸 Koyo Maru (1886)
大正2年(1913)2月17日,大連に合資会社八馬商会を設立,5月に第十五多聞丸(1)を所有した.運航は八馬商店船舶部が行い八馬汽船が用船して石炭を米国などへ運び砂糖,麦などの輸入を行った.引き続き,八馬商会名義で第十六多聞丸(1),台灣丸を購入した.しかしながら第十五多聞丸(1)は勝田汽船に売却され,八馬商会は大正6年(1917)5月13日に閉鎖された.売却と閉鎖の理由は不明である.他2船は八馬兼介に移籍された後,間もなく海難により沈没した.大正11年(1922)2月20日,同じく大連に多聞汽船合資会社を設立し,3月に第十八多聞丸(1)を所有した.主に用船貸し出しを行ったが,昭和4年(1929)に海難のため沈没し所有船がなくなったために本船が沈没した日付をもって多聞汽船は解散した.
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