小史 朝鮮郵船株式会社 沿革 航路 戻る

前史

朝鮮半島の陸上交通機関は古くから馬背,駕籠,牛馬車のみで鉄道の発達は著しく遅れていた.日清戦争による財政難の韓国政府に替わって日本政府が国策遂行の立場から京釜鉄道株式会社を設立し明治38年(1905)1月に釜山/京城(今のソウル)間を開設した.翌明治39年(1906)4月には京城/新義洲間が開通し京釜・京義両線の連絡により,ようやく朝鮮半島を縦貫する交通路が出現した.朝鮮半島を横断し東西両海岸を連絡する京城/元山間は明治37年(1904)に起工後,種々の障害のため工事が中止され,開通したのは大正3年(1914)8月になってからのことだった.
朝鮮清津港
朝鮮威北清津全景

今村竹風堂発行の絵葉書.画面左側2隻は朝鮮郵船の所有船で,手前のやや大型の船は京城丸(1902年進水,もと日本郵船の釧路丸)のようである.


H.Nakamura
一方,朝鮮半島沿岸の海上交通機関は記録にある中では日清戦争前に韓国で明治26年(1893)に設立された利運社という小さな汽船会社があり,同国政府の管理下に3隻の船(顯盒・海龍・蒼龍)を沿岸航路で運航していた.日清戦争中の明治28年(1895)1月28日に日本郵船は韓国政府と利運社との間に契約を締結して前記の汽船3隻を韓国政府に代わって管理し,政府保護の下で北鮮方面の航海を3年間行うこととした.この航路と就航船舶は後に釜山で朝鮮人経営の協同汽船会社が設立されることに伴って同社が航路と船舶を引き継いでいる.
明治41年(1908)に元山の合資会社吉田船舶部が韓国政府から3万円を貸与されて釜山/雄基間の航路を開始し,これが韓国における初めての命令航路となった.航路の整備が遅れていた南西沿岸側は当時の釜山理事官が民間有力者を説いて釜山汽船株式会社を設立させ,韓国政府も同社に3万円を貸与して浦項/木浦間に命令航路を開設させた.また明治42年(1909)には多島海及び木浦/群山間の命令航路も開始された.これらの命令航路は明治43年(1910)8月に日韓併合条約が調印(このとき韓国は朝鮮と改称)されてからは朝鮮総督府に管理が継承された.
近代におけるわが国と朝鮮半島との間の航路の歴史を見ると明治9年(1876)に郵便汽船三菱会社が日本政府から貸与された船により補助金を受けて長崎/五島/対馬/釜山間の航路(長崎釜山線)を開設したのが定期航路の最初である.続いて明治13年(1880)には住友会社が大阪/釜山間航路を開設,明治18年(1885)に日本郵船が発足すると政府命令航路として神戸/下関/長崎/釜山/元山/浦鹽間と神戸/下関/長崎/釜山/仁川/芝罘/天津間および神戸/下関/長崎/対馬/釜山/仁川/芝罘/天津/牛荘間の3線を開設した.
隅田川丸
大阪商船の隅田川丸 Sumidagawa Maru (1887)

大阪仁川線に就航した.左写真は北日本汽船時代のもの.
大阪商船は明治23年(1890)に大阪/釜山線,明治26年(1893)には大阪/仁川線及び朝鮮沿岸線,明治32年(1899)に大阪/鎮南浦線,明治36年(1903)に同航路を安東縣まで延長,明治35年(1902)には大阪/神戸/下関/釜山/元山間を開設し,後に清津,浦鹽に延長,明治38年(1905)には長崎/鎮南浦線を開設,後に大連へ延長している.
社外船主では明治20年(1887)頃より岸本,八馬,廣海,大家,右近などの個人船主が随時配船を行い,明治44年(1911),合資会社原田商行が下関/釜山/元山/城津/鏡城/清津/雄基間の航路を開設した.
日本海側の定期航路としては明治39年(1906)に大家商船合資会社が日本政府の補助により門司/濱田/境/宮津/敦賀/浦鹽/七尾/伏木/夷/新潟/函館/小樽/九春古丹/小樽/浦鹽/元山/釜山/門司と,小樽/函館/夷/新潟/伏木/七尾/敦賀/宮津/境/濱田/門司/釜山/元山/浦鹽/九春古丹/小樽の2線を命令航路として経営した.この航路は共に明治40年(1907)に大阪商船に引き継がれ航路も敦賀/浦鹽線および小樽/浦鹽線となり朝鮮への寄港は廃止された.

朝鮮郵船の創立

朝鮮郵船株式会社の創立は日韓合併条約が調印されてから3年後の明治45年(1912)1月19日である.本店を朝鮮京畿道京城に置き釜山には支店を置いた.資本金は300万円であった.会社創立の背景は社史によると当時の朝鮮総督寺内正毅が日清,日露両戦役時の御用船関係,経営者の利害関係等において航路の改廃,中絶の経験により一大汽船会社を組織し朝鮮統一の目的を達成する一助たらしめる,とある.
朝鮮郵船本店
創業時の朝鮮郵船の本店
(京城府南大門通り一丁目)
創立に関する発起人の協議書には「釜山汽船株式会社,合資会社吉田船舶部及木浦航運合名会社ヲ統一スルノ目的ヲ以テ之ヲ解散シ,新ニ汽船会社ヲ設立スルニ付テハ朝鮮総督府ノ指導ニ基キ船舶ノ改良,航路ノ整理等,総テ運輸交通機関ノ完全ヲ期シ茲ニ発起人一同誠意奮励,新汽船会社ノ設立進行ヲ図ルコトヲ盟約ス」とある.
また経営航路については「会社ノ経営スヘキ航路ハ差当リ朝鮮全沿岸ヲ主トシ将来其開発ニ伴ヒ漸次事業ヲ拡張シ航路ノ延長ヲ図ルコト」となっている.4月1日から営業を開始するにあたり創立に参加した各船会社から船を買収することとなり開業までに釜山汽船から11隻,吉田船舶部から3隻,大阪商船から2隻,木浦航運から1隻,個人船主から2隻を購入,第一期上半期中に合計26隻の汽船を取得した.命令航路のうち迎日湾・欝陵島線に使用すべき補助機関付き帆船は適当な船がなかったため早々に建造に着手し同年7月に竣工した.この船は朝鮮郵船創立後の新造第一船となり迎日丸と命名された.朝鮮総督府は明治45年(1912)3月28日付で第一回の航海補助命令書を下付した.その航路は釜山・雄基線他8線で期間は明治48年3月31日迄の満3ヵ年で補助金は年額平均で26万1991円であった.

創業時

創業時は朝鮮総督府の命令航路10線および自由航路12線の経営で開始された.
 命令航路は次の10線である.
 1.南鮮航路 南鮮内廻線・釜山/麗水間
 2.南鮮航路 南鮮内廻線・木浦/麗水間
 3.南鮮航路 南鮮外廻線・釜山/木浦
 4.西鮮航路 仁川/鎮南浦線
 5.西鮮航路 仁川/海州線
 6.西鮮航路 木浦/群山
 7.西鮮航路 仁川/群山
 8.東鮮航路 迎日灣/欝陵島線
 9.東鮮航路 釜山/方魚津線
10.北鮮航路 元山/雄基線
命令航路というのは補助金が下付される反面,当然の事ながら規約が厳しい.第一条は「其ノ会社(朝鮮郵船)ハ明治四十五年四月一日ヨリ明治四十八年三月三十一日ニ至ル三箇年間,朝鮮沿岸ニ於ケル運輸交通ノ利便ヲ図ル為本命令書ニ依リ航海ニ従事スヘシ」から始まり第二条には「本命令ノ航海線路,航海度数及寄港地ハ左ノ如シ」とあり寄港地,航海回数が列記されている.また使用船に関してもたとえば釜山・雄基線では「其ノ会社ノ所有ニ専属シ左ノ条件ヲ具備スルコトヲ要ス」「総噸数ハ八百噸以上最強速力一時間十海里以上ノ汽船ニ艘但シ鋼製又ハ鐵製ノモノニ限ル」とある.さらに郵便物は「無賃ニテ逓送スヘシ」「使用船舶各港ニ出入スルトキハ郵便旗章ヲ掲揚スヘシ」(第十条)「朝鮮総督ハ必要ノ場合ニ於イテ第二条ノ線路付近ニ於ケル燈台所在地ニ臨時使用船舶ノ寄港ヲ命スルコトアルヘシ」という条項がある.この時期は朝鮮半島全沿岸にわたる沿岸航路の整備に力を注ぎ自由航路の開拓,改善,改廃を繰り返した.
創業時の船隊は9割が木造船で鋼製船舶は2隻のみであり,命令書にある「総噸数ハ八百噸以上最強速力一時間十海里以上ノ汽船」に該当するのは明治41年(1908)に建造された咸鏡丸(802総トン,11.3ノット)1隻だけであった.このため創業後ただちに船質の改善に取り組み漸次,鋼製船舶を整備していった.
咸鏡丸
咸鏡丸 Kankyo Maru (1908)
その第一歩として大正2年(1913)に巨濟丸・昌平丸,同3年(1914)には穏城丸・鏡城丸の同型姉妹船を建造した.続いて同年中に1,000総トン型の京畿丸・全羅丸が雄基・門司航路に就航した.この航路は当時唯一の対内地航路というべきものであった.
第1次世界大戦による船価高騰のためもっぱら航路の改善のために雄基丸以下5隻を購入した.大戦を契機として進出した近海航路用に4隻の新造船平安丸,清津丸,釜山丸,會寧丸を建造した.

航路網の整備(大正時代)

「朝鮮郵船の沿岸航路のもっとも華やかな時代」と社史が伝えているこの時期は,年間ようやく20万人台にすぎなかった従来の旅客輸送量が大正7年(1918)に34万人,同8年(1919)に37万人と記録的躍進を遂げ,一方貨物輸送トン数も激増し,朝鮮沿岸にも大戦景気の余波至るありさまであった.世界的に高騰していた船価も第1次世界大戦後は反動景気のため船舶過剰となり著しく下落したが優秀船の要求は急を要し買船に着手,櫻島丸以下13隻を購入した.このうちちどり丸は貨客送迎用,咸南丸,咸北丸は沿岸航路の使用船として充当した.
この時期の沿岸航路の状況をみると大正12年(1923)頃,釜山を中心とした南鮮一帯の沿岸航路は朝鮮郵船の釜山/麗水線,釜山/鬱陵島線など朝鮮総督府命令航路をはじめとしてほかに幾多の船主が割拠し小型発動機船を運航して乱暴きわまる競争が繰り返され朝鮮郵船の経営を圧迫していた.このためこれに対抗すべき新鋭ディーゼル船2隻(はと丸,はやぶさ丸)を大正14年(1925)1月に竣工させて釜山へ回航した.果たして他の船主間に合同したほうが得策とする意見が台頭し始め,ようやく同年2月10日に発起人集会を開いて朝鮮汽船株式会社が釜山に設立された.
清津丸
清津丸 Seishin Maru (1920)

雄基/大阪線に就航した.
朝鮮汽船の設立に伴い朝鮮郵船は南鮮沿岸航路を同社の経営に移して,釜山/元山線および鬱陵島ならびに濟州島と本島とを結ぶ命令航路のみを残して昭和7年(1932)3月に至るまで経営にあたったが,江原道沿岸は漸次陸上交通網が完備し乗合自動車の往来が頻繁になり海上交通網は随所に小型発動機船との競争が激化してきたため本航路も朝鮮汽船会社に委譲し朝鮮郵船はもっぱら近海航路への進出をはかることとなった.
朝鮮郵船は第1次世界大戦を契機として近海航路の新航路の開拓につとめ,関東大震災の前後に至るまで躍進的発展を遂げた.大正4年(1915)には門司/浦鹽航路の開始,仁川/芝罘線の新設,大正6年(1917)には浦鹽航路の阪神延長ついで大正9年(1920)新義州/大阪線,朝鮮西岸/横浜線を開始,続いて大正11年(1922)朝鮮/北支那線,大正14年(1925)朝鮮/上海線,朝鮮/長崎/大連線の命令を受け別に私営航路大阪/濟州島線,陸軍御用航路雄基/大阪線を開始した.

躍進期(昭和初期から太平洋戦争開戦)

新京丸進水式
昭和7年11月24日浦賀船渠で進水する新京丸 Shinkyo Maru
昭和期に入ってからは漢城丸を購入し,金剛山丸,長白山丸,長壽山丸の同型貨客船3隻を新造した.昭和7年(1932)以降の購入船は江原丸,咸鏡丸,新造船は新京丸,盛京丸の2隻であった.この時期までに朝鮮郵船が所有する木造船は一掃されている.浦賀船渠で建造された新京丸は主機にレシプロ機関と連動する排気タービン付きの機関を備え,船体には広範囲に電気熔接が採用された.昭和11年度には大興丸,金泉丸,興東丸,興西丸,安州丸,定州丸の6隻の新造船を発注した.
大興丸
大興丸 Taiko Maru (1937)
太平洋戦争開戦までの間に新造された京城丸型は先に浦賀船渠が建造した新京丸を改良した北日本汽船の射水丸をさらに改良した同所の標準型ともいうべき貨物船で主機には二連成汽機の排気に連動するタービン付き機関が採用された.昭和18年に進水した八州丸も基本的には京城丸と同型の浦賀船渠C型標準船である.

太平洋戦争と朝鮮郵船の終焉

この期間に就航した船は八州丸と東安丸以外は戦時標準船である.1D型は八光丸,七洋丸,扶餘丸の3隻,試作船の室津丸を含めた2E型は安城丸,寶城丸,天光丸の4隻が建造された.太平洋戦争中に喪失した所有船は確認できるものでは戦禍による喪失船が26隻,普通海難によるものが3隻である.船舶運営会史等によると南鮮間航路と北鮮間航路はいずれも北海道樺太航路と共に終戦時まで配船を継続し,戦局の進展と共に配船強化が計られた等の事情により本航路においては他航路と異なり船客員数はむしろ17年度より増加する傾向を示した.
終戦時に残存が確認できた船は會寧丸,櫻島丸,榮江丸,金泉丸と戦時標準船の室津丸,安城丸,天光丸,扶餘丸である.この他に所在が不明な船が数隻あるが国鉄の資料によると終戦時に韓国にあった朝鮮郵船の船舶は米軍の要請により貸与していたが貸与期間が過ぎても韓国に置き去ったため政府は再三に渡り韓国に対して返却の要請をしたが受け入れらず責任上,国家使用船(当時国鉄所有)興安丸,壱岐丸,宇品丸を代償として朝鮮郵船に提供している.これらの旧朝鮮郵船の国内資産を継承して昭和26年(1951)3月31日には東京郵船株式会社が資本金2000万円で東京に設立された.
壹岐丸
壹岐丸 Iki Maru (1940)
残存した船舶も昭和34年(1959)頃までには大半が姿を消した.船舶の動静からみれば朝鮮郵船はこの時期に完全に消滅したことになる.その後,東京郵船は昭和39年(1964)4月1日,日本郵船の傘下会社である山本汽船株式会社と合併し昭和郵船株式会社となった.昭和郵船も平成元年には同じ日本郵船傘下の岡田商船株式会社,千代田汽船株式会社と合併してオリオンシッピングとして発足している.

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