昭和初期の世界的恐慌の中で各国の海運会社は運航費の節約による採算の向上のため競ってディーゼル船の建造をすすめた.わが国最初の航洋大型ディーゼル船として著名な三井物産船舶部の赤城山丸(4,715G/T)は三井物産造船部玉工場で大正13年(1924)7月に竣工した. 三井物産造船部のディーゼル機関の研究は造船設計課長北郷七次が船鉄交換船引渡しのため米国へ出張した帰り,ヨーロッパの造船界を視察しデンマークのB&W社の盛況ぶりを報告したことを受けて開始された.しかし船舶部機関長川合菊平氏の回顧録(三井船舶「創業八十年史」に収録)によると当時の船舶部長川村貞次郎は当初ディーゼル機関の採用には慎重で大正11年(1922)7月にいたってようやく三井物産本店の正式許可をとりつけたという. 船舶部では大正10年(1921)に造船部と仮契約していた6,400重量トン級の貨物船2隻の第1船(赤城山丸)にディーゼル機関を採用し,主機の関係で船体を10フィート伸ばして7,500重量トンに変更した.第2船(秋葉山丸)には従来の蒸気機関を採用しディーゼル船と運航上の経済的特質を比較することとした. 両船を北太平洋航路で比較した結果,赤城山丸は秋葉山丸が重油燃料を使用した場合よりもなお1航海において20,172円余り有利に運航することができ,これによってモーター船は汽船と比較してその燃料費,修繕費,人件費の減少,速力の増加ならびに機関室容積の減少による積貨量の増大等によって収益力が非常に増加することが証明できた,と報告された. 赤城山丸のディーゼル主機(2,000軸馬力,定格出力1,600制動馬力)は大正12年(1923)3月神戸のマックス・ウェルス商会を通じてデンマークのB&W社に発注された. ところがこれより先,大正10年(1921)に川崎造船所は同所で建造中の貨物船ふろりだ丸(5,845G/T)用のフラガー型対向ピストンディーゼル主機を英国ジョンブラウン社に発注し,また取扱者を同社に派遣していたものの機関の完成がおよそ1年も遅れたために惜しくもわが国初のディーゼル船としての名を逸した,と「川崎汽船五十年史」には記載されている. |