海と船の挿話 - The episode of the sea and a ship 戻る

20次船・かりふおるにあ丸の遭難
昭和44年1月に野島崎沖で荒天のため船体が折損して沈没したジャパンラインの撒積貨物船ぼりばあ丸と翌45年2月にほぼ同じ海域で遭難沈没した第一中央汽船のペレット専用船かりふおるにあ丸.両船の事故を重視した運輸省船舶局と日本海事協会が20次計画造船以降の大型船約60隻の安全性を総点検した結果,船体の一部の腐食や亀裂が予想以上にひどいことが報告された.
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ペレット専用船 96389/JPTT 34,001G/T Lpp:210.13 B:32.20 D:17.80 m 主機 M.A.N. 1基 1軸 17,000PS 速力 15.5/17.3kt
三菱重工業株式会社横浜造船所建造 第876番船 1965.9.25竣工 第20次計画造船
SOS DE JPTT POSITION LAT 3510N LONG 14355E
昭和45年(1970)1月23日,第一中央汽船所有の鉱石運搬船かりふおるにあ丸はカイザーペレット60,157キロトンを満載し和歌山港に向け米国西海岸ロングビーチ港を出港,日本に近づいた2月9日,野島崎東方沖約200哩付近北緯35度10分東経143度55分で左舷船首10度の方向から来た異常な大波の外力を左舷船首部に受け左舷1番バラストタンク外板に破口を生じて浸水した.当時の天候は驟雨を伴う霧雨で42ノットばかりの西南西風が吹き,視界はややせばめられていたという.
本船が発信したSOSは,付近を航行中のニュージーランド船籍の貨物船Aotearoa(当時,日本人の保障技師2名が乗船中だったため連絡が順調に運んだ)と,川崎汽船の冷凍貨物船えくあどる丸が受信した.荒天下,難航していたAotearoaは救助のために針路を反転して翌10日午前3時30分,かりふおるにあ丸に接近すると危険を伴いながらも救命艇を降下,同7時本船から22名を救出したが3名が行方不明,住村船長は本船と運命を共にした.えくあどる丸は本船の1号艇とともに乗員2名を救出した.
主文 − 機船かりふおるにあ丸遭難事件 (海難審判庁裁決録)
「本件遭難は,かりふおるにあ丸が,カイザーペレツトを満載し,冬季に北太平洋を本邦に向け航行中,温暖な黒潮海域にはいり,予知できなかつた高層気象の変化に伴い大気がじよう乱し,これにより激しい突風が起こり,この影響で海面に発生した混乱波が,たまたま同調して異常な大波となり,この大波と本船とが遭遇し,瞬時に生じた一大破壊力をもつ外力を左舷船首部に受け,左舷一番バラストタンク付近の内部構造部材が崩壊し,同タンク外板に破口を生じて浸水したことに因つて発生したものである.」 (昭和四十八年七・八・九月分裁決録 第七・八・九合併号 別冊)
本船の遭難事故はその前年,ほぼ同じ時期同じ海域で沈没したジャパンラインの撒積貨物船ぼりばあ丸(20次)の遭難事故とともに「船舶の大型化の急展開のなかで,造船技術がそれに完全に追随できなかったこと」(創業百年史 - 商船三井),「今度の事故で非常に残念に思うことは,船長が船と運命を共にしたこと」(毎日新聞),「船長の運命を左右する船員法改正へ」などがクローズアップされる契機となった.

大阪商船時代の二見丸の写真
京都府在住のMical Gampel氏から大阪商船時代の二見丸の写真を提供いただいた.撮影時期は明治32年(1899)ころ場所は長崎らしい.二見丸は港内を移動中で,後方には停泊中の英国Astraea級の二等巡洋艦らしき艦艇がみえる(写真下).さらに二見丸の後檣の遠景に東洋汽船の旗を掲げたマストと煙突の一部が見られる.本船の写真は他にも存在するが,各部が詳細に看取できる貴重な写真である.
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二見丸 Futami Maru (1888)
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提供 Micah Gampel
協力:E.Kakehasi

東洋汽船・地洋丸の座礁事故
大正5年(1916)3月31日未明,マニラより香港に向けて航行中の東洋汽船の大型旅客船地洋丸(1907年進水 13,426G/T )は香港沖担杆島北東端で座礁事故を起こした.この事故を記録した「魔の山」と題する写真集の画像をBill Schupp氏より提供いただいたのでここに紹介したい.「百方救助に努めたが,何分全速力で座礁したため離礁できず4月5日に至り第三船艙より両断し,救助の見込みが全くなくなったので4月27日ついにこれを放棄した.幸いに人命にはほとんど危害なく,喪失後の始末も案外早く片付いたのは不幸中の幸いであった」と「六十四年の歩み」には記録されている.本船にはSchupp氏の祖母にあたる方が日本に向けて乗船され,氏は当時の状況などの情報を収集中とのことである.
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提供:Bill Schupp

さいべりや丸を見送る人々
北日本汽船で事務長を務められた山口精(やまぐち・つとむ)氏の乗船資料をご家族から提供いただいた.氏は昭和9年(1934)11月に事務補として入社後に,天草丸,新高丸,さいべりや丸,榮福丸,日吉丸(Hie Maru)に乗務された.写真は昭和10年(1935)5月26日14時30分,受領後の初航海で敦賀港を出航するさいべりや丸.本船は日本海航路を充実させるため購入後に貨客船に改装,敦賀/浦鹽斯徳線に就航した.日曜日の午後の岸壁に集う会社関係者,自転車や乳母車を押す人,子供を抱いた和装の婦人,日傘をさす人,少女の服飾,大八車などどこかのどかな情景に興味は尽きない.この6年後には太平洋戦争となるがここに写っている人々はその後どのような人生を送ったのだろうか.
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提供 S.Yamaguchi
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さいべりや丸のサロンにおける山口事務補(当時)
さいべりや丸 Siberia Maru
さいべりや丸 Siberia Maru (1904)

もと町田商會の聖光丸を貨客船に改造し改名した
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さいべりや丸受領時の記念写真
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さいべりや丸の乗員

北日本汽船の新造貨物船日吉丸 Hie Maru について
前回に続き北日本汽船の事務長だった山口精氏の資料より氏が事務長として乗船した日吉丸を紹介したい.太平洋戦争開戦6ヶ月前の昭和16年5月末,大阪鐵工所因島工場で北日本汽船の新造貨物船が竣工した.本船は大阪鐵工所の7,000重量トン級神龍丸型の1隻で日吉丸と書いて[ひえ・まる]と読む.船名は当時の北日本汽船野村社長が京都の日吉神社に赴き宮司から命名のお墨付きと御神体を頂戴したとのことで神社の名前に因んでいる.
日吉丸 Hie Maru
日吉丸 Hie Maru (1941)

S.Yamaguchi
日吉丸は第2船艙に20tヘビーデリックを有していた.商業航海は樺太航路を2往復したのみで9月には陸軍に徴用されている.
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写真右:昭和16年6月に事務長として日吉丸に乗船した当時27歳の山口氏.撮影場所は本船の船橋で浮環にはS.S. HIE MARUとの船名の一部を確認できる.
写真左:榮福丸の乗組員.2列目左端が山口氏.
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大阪鐵工所因島工場での引渡し(昭16.5)
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竣工後7ヶ月に満たない昭和16年12月23日,ボルネオ北西海クチン沖で撃沈.宇品の凱旋館での徴用解除式
日吉丸は太平洋戦争開戦後間もなく陸軍徴用船として香取丸(日本郵船)他5隻の輸送船,駆逐艦狭霧,白雲等の護衛艦艇と共に船団を組み英領ボルネオ攻略作戦に従事,昭和16年(1941)12月16日ボルネオ島のミリに南方軍を上陸させた後,さらに南西のクチン攻略に備え湾外で仮泊中にオランダ潜水艦の雷撃により香取丸と共に沈没した(香取丸を撃沈したのはK-14潜水艦).山口氏を含む救助された乗組員は日蘭丸により台湾へ移送され,さらに帝海丸により翌17年(1942)1月11日に宇品に帰還した.
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北日本汽船株式会社解散記念写真

横浜港における関東大震災の通信状況
竣工間もない大阪商船の貨客船ぱりい丸は地震発生時,姉妹船ろんどん丸と共に横浜港にあって罹災者の救助,通信活動に活躍した.大阪商船は本船を含めて合計21隻を救援活動に提供し約9千人の罹災者,救援活動者の輸送にあてた.外国船では当時大桟橋に停泊中のEmpress of Australia(Canadian Pacific)やAndre Lebon(Messageries Maritimes)の救援活動が有名である.
ぱりい丸 Paris Maru
ぱりい丸 Paris Maru (1922)
号外
大正12年(1923)9月1日の関東大地震の際,横浜港に停泊していた内外の船舶は地震発生直後から救助活動にあたった.主な邦船は三島丸,丹後丸(以上日本郵船),ろんどん丸,ぱりい丸,湖南丸(以上大阪商船),これや丸(東洋汽船),寶永山丸(三井物産),鹿山丸,東華丸(以上川崎汽船)等である.
「住民は海上に碇泊している倫敦丸巴里丸に避難中」(大阪朝日新聞号外 1日)「静岡県運輸事務所は清水港から平明丸,玉取丸,海幸丸,たはらす丸,平洋丸の出帆要請」「大阪市長の要求により2日大阪港より天洋丸に食糧品219トンを載んで救助へ」(大阪毎日新聞号外 2日)「大阪市より救助第一船シカゴ丸出帆」(大阪時事新報号外 2日)等,大阪の各新聞号外は横浜港と救助活動要請の様子を伝えている.
全市ホトンド火ノ海ト化シ
東洋汽船のこれや丸は翌日の米国向け航海のため新港埠頭で荷役中だったが船長渡辺喜也は不在のため1等運転士菊池勇一が船を指揮し地震発生直後,岸壁を離れた.横浜市内の通信機能が麻痺したためにこれや丸には一時的に港務部,税関,県警等の仮事務所が設けられた.12時30分銚子無線局が「地震ノタメ横浜岸壁破壊シ死傷者多数ノ見込ミ」という一報をろんどん丸より受信.同局と通信を開始したこれや丸が13時17分「横浜地震後火災岸壁ニ近ヅク」と発信したのを潮岬無線局が傍受して大阪中央電信局に宛てた「横浜地震大火災ノ旨停泊船ヨリ銚子ヘ通信シオレリ」が災害地外への第一報といわれる.引き続きこれや丸は横浜の状況を発信した.「本日正午大地震起コリ引キ続キ大火災トナリ全市ホトンド火ノ海ト化シ死傷者幾万ナルヲ知ラズ,交通通信機関,水,食糧ナシ,至急救助乞ウ神奈川県」「地震ノタメ横浜ノ災害ソノ極ニ達ス,最大ノ救助求ム」.これらの情報は対米通信用の磐城無線電信局へ送られ局長米村喜一郎が直ちに英訳しホノルル,サンフランシスコへ送信されて大震災のニュースが世界へ伝わった.海運興国史によると震災の救助活動に従事した邦船は合計96隻となっ ている.
これや丸 Korea Maru
これや丸 Korea Maru (1901)

わが国初の大型ディーゼル船 三井物産船舶部・赤城山丸 Akagisan Maru (1924)
昭和初期の世界的恐慌の中で各国の海運会社は運航費の節約による採算の向上のため競ってディーゼル船の建造をすすめた.わが国最初の航洋大型ディーゼル船として著名な三井物産船舶部の赤城山丸(4,715G/T)は三井物産造船部玉工場で大正13年(1924)7月に竣工した.
三井物産造船部のディーゼル機関の研究は造船設計課長北郷七次が船鉄交換船引渡しのため米国へ出張した帰り,ヨーロッパの造船界を視察しデンマークのB&W社の盛況ぶりを報告したことを受けて開始された.しかし船舶部機関長川合菊平氏の回顧録(三井船舶「創業八十年史」に収録)によると当時の船舶部長川村貞次郎は当初ディーゼル機関の採用には慎重で大正11年(1922)7月にいたってようやく三井物産本店の正式許可をとりつけたという.
船舶部では大正10年(1921)に造船部と仮契約していた6,400重量トン級の貨物船2隻の第1船(赤城山丸)にディーゼル機関を採用し,主機の関係で船体を10フィート伸ばして7,500重量トンに変更した.第2船(秋葉山丸)には従来の蒸気機関を採用しディーゼル船と運航上の経済的特質を比較することとした.
両船を北太平洋航路で比較した結果,赤城山丸は秋葉山丸が重油燃料を使用した場合よりもなお1航海において20,172円余り有利に運航することができ,これによってモーター船は汽船と比較してその燃料費,修繕費,人件費の減少,速力の増加ならびに機関室容積の減少による積貨量の増大等によって収益力が非常に増加することが証明できた,と報告された.
赤城山丸のディーゼル主機(2,000軸馬力,定格出力1,600制動馬力)は大正12年(1923)3月神戸のマックス・ウェルス商会を通じてデンマークのB&W社に発注された.
ところがこれより先,大正10年(1921)に川崎造船所は同所で建造中の貨物船ふろりだ丸(5,845G/T)用のフラガー型対向ピストンディーゼル主機を英国ジョンブラウン社に発注し,また取扱者を同社に派遣していたものの機関の完成がおよそ1年も遅れたために惜しくもわが国初のディーゼル船としての名を逸した,と「川崎汽船五十年史」には記載されている.
赤城山丸 Akagisan Maru
赤城山丸 Akagisan Maru (1924)
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