海と船の挿話 The episode of the sea and a ship 1頁 2 戻る

北日本汽船の新造貨物船日吉丸
提供 S.Yamaguchi
山口氏
北日本汽船の新造貨物船日吉丸 Hie Maru について

前回に続き北日本汽船の事務長だった山口精氏の資料より氏が事務長として乗船した日吉丸を紹介したい。太平洋戦争開戦6ヶ月前の昭和16年5月末、大阪鐵工所因島工場で北日本汽船の新造貨物船が竣工した。本船は大阪鐵工所の7,000重量トン級神龍丸型の1隻で日吉丸と書いて[ひえ・まる]と読む。船名は当時の北日本汽船野村社長が京都の日吉神社に赴き宮司から命名のお墨付きと御神体を頂戴したとのことで神社の名前に因んでいる。

昭和16年6月に事務長として日吉丸に乗船した当時27歳の山口氏。撮影場所は本船の船橋で浮環にはS.S. HIE MARUとの船名の一部を確認できる
日吉丸受領記念
大阪鐵工所因島工場での引渡し(昭16.5)
宇品凱旋館
竣工後7ヶ月に満たない昭和16年12月23日、ボルネオ北西海クチン沖で撃沈。宇品の凱旋館での徴用解除式にて
日吉丸 日吉丸
本船は第2船艙に20tヘビーデリックを有していた 小樽港における日吉丸。本船の商業航海は樺太航路を2往復したのみで9月には陸軍に徴用されている
日吉丸は太平洋戦争開戦後間もなく陸軍徴用船として香取丸(日本郵船)他5隻の輸送船、駆逐艦狭霧、白雲等の護衛艦艇と共に船団を組み英領ボルネオ攻略作戦に従事、昭和16年(1941)12月16日ボルネオ島のミリに南方軍を上陸させた後、さらに南西のクチン攻略に備え湾外で仮泊中にオランダ潜水艦の雷撃により香取丸と共に沈没した(香取丸を撃沈したのはK-14潜水艦)。山口氏を含む救助された乗組員は日蘭丸により台湾へ移送され、さらに帝海丸により翌17年(1942)1月11日に宇品に帰還した。
北日本汽船解散写真
北日本汽船解散記念写真

さいべりや丸を見送る人々
提供 S.Yamaguchi
さいべりや丸
北日本汽船で事務長を務められた山口精(やまぐち・つとむ)氏の乗船資料をご家族から提供いただいた。氏は昭和9年(1934)11月に事務補として入社後に、天草丸、新高丸、さいべりや丸、榮福丸、日吉丸(Hie Maru)に乗務された。写真は昭和10年(1935)5月26日14時30分、受領後の初航海で敦賀港を出航するさいべりや丸。本船は日本海航路を充実させるため購入後に貨客船に改装、敦賀/浦鹽斯徳線に就航した。日曜日の午後の岸壁に集う会社関係者、自転車や乳母車を押す人、子供を抱いた和装の婦人、日傘をさす人、少女の服飾、大八車などどこかのどかな情景に興味は尽きない。この6年後には太平洋戦争となるがここに写っている人々はその後どのような人生を送ったのだろうか。
さいべりや丸のサロンにおける山口事務補(当時) もと町田商會の聖光丸を貨客船に改造し改名した
さいべりや丸受領時の記念写真
さいべりや丸受領時の記念写真
さいべりや丸の乗員
さいべりや丸の乗員

1989年 - クルーズ元年
おせあにっく ぐれいす
おせあにっく ぐれいす Oceanic Grace (1989)

1989.4.21 横浜港初入港時
1980年代に入り日本人の余暇の過ごし方も、ゆとり、高級化を求めたパッケージツアーが主流となりつつあった。そうしたなかで海洋レジャーブームは平成元年(1989)には「クルーズ元年」を迎え、大小さまざまなクルーズ船と称する船が就航した。昭和海運では経営の多角化の一環としてクルーズ船事業に進出。他社とは競合しない方針のもと、設計にオランダのSTUDIO ACHTを起用しヨーロピアン感覚のプライベートヨットタイプのクルーズ船とした。初期投資負担を軽減するために芙蓉グループ企業を中心とした法人メンバー制を採り、船価50億円の3分の1近くをこの会員制導入で調達するという新しい試みがなされた。
本船はNKK津製作所で昭和63年(1988)10月にドック内で進水式を挙行、女優高峰三枝子により支綱切断され社内公募をもとに「おせあにっく ぐれいす」と命名された。
写真は平成元年(1989)4月21日、初入港で横浜港大さん橋に接岸する昭和海運(オセアニッククルーズ) のクルーズ船おせあにっくぐれいす Oceanic Grace (5,218総トン)。本船は翌22日から日本周遊の処女航海に出航した。初代船長は専用船等の船長を歴任した一木麟太郎氏。
反対側のバースには英国キュナード社のクルーズ船Queen Elizabeth 2が横浜博覧会期間中ホテルシップとして係船中だった(3/27入港)。

東洋汽船の小蒸気船
日本丸出帆
提供 S.Kizu
東洋汽船には数隻の小蒸気船があった。判明する船には、みやこ丸(8103/JPLB 21G/T 明34香港で建造)、吾妻丸(11049/LFHP 45G/T 明40浦賀船渠No.43)、末廣丸(19644/NHLC 明33 大阪で建造)などがあり、末廣丸が大正15年7月17日に神戸の末廣商会へ売却されたこと以外、消息は全くわからない。船容も不明だが同社船の絵葉書などを仔細に眺めてみればあるいは船名を確認出きるかも知れない。
写真は横浜港を出航する東洋汽船の日本丸。本船の右舷後方に見える小さな船がどうやら同社の小蒸気船のようである。

16ミリカラー映画「世界最大 日章丸」
日章丸映画
日章丸Nissho Maru (74,868総トン、載貨重量132,334キロトン、全長291m)
日章丸 Nissho Maru は出光タンカーが昭和37年(1962)に建造した当時世界最大の油槽船であった。建造所である佐世保重工業が本船の建造過程を「世界最大日章丸」と題して映画化した。
「1962年の世界造船界のトップニュースの一つとして新聞・ラジオ・テレビ等マスコミに大きくとりあげられました。本映画はこの巨船が16万トンドックのなかで建造されていった過程を記録したものです。”かって存在しなかった巨大さ”に挑む情熱と冷厳なメカニズムとの綿密な結び付きの中に、日本の重工業のたくましさがあらためて認識されることでしょう。そして立体的な撮影を駆使して紹介されるドック注水、13万トンの巨体が白い水しぶきにぬれて徐々に浮かびあがるとき、生命の誕生にも似た大いなる感動を覚えることでしょう」とパンフレットにある。製作は東洋映画製作所。スタッフの中には、音楽三木稔、解説田宮二郎などの名前がある。

旅客船菫丸 Sumire Maru の消息
菫丸
菫丸 Sumire Maru
明治45年(1912)大阪商船は別府温泉の開発を目的として大阪豊後線を開始した。この航路は開始後、阪神地方からの入湯客が年々増加したため使用船も大正10年(1921)には新造船紫丸を就航させるなどサービスの向上につとめた。昭和3年(1928)には「世界の公園たる瀬戸内海を昼間航海し得べく」ディーゼル主機の新造船緑丸、翌年には同型船菫丸を就航させた。遊歩甲板上にはベランダ付き一等客室、食堂、その両舷にベランダを設けるなど風光明媚な瀬戸内海を居ながらにして満喫できる設備を有する豪華船であった。不幸にも緑丸は昭和10年(1935)7月3日、小豆島沖で濃霧のため千山丸(大連汽船)と衝突、沈没したが本船の事故を教訓として以降の別府航路の新造船は安全性が強化された。菫丸は太平洋戦争を生き抜き、戦後再び別府航路に復帰したが昭和25年(1950)8月22日、GHQの指令により賠償としてオランダ政府に接収された。その後の消息は不明のままである。

解体を待つ重量物運搬船那智丸 Nachi Maru
那智丸
那智丸 Nachi Maru

提供 H.Iwase
那智丸は日之出汽船が第19次計画造船により呉造船所で昭和38年(1963)に建造した6,521総トンの重量物/貨物兼用船で、わが国初の250トンヘビーデリックを装備した船として知られる。長らく同社のフラッグシップとして活躍したが、昭和56年(1981)に引退し売却された。
写真は昭和57年(1982)1月18日相生市の石川島興業解体所で解体を待つ那智丸。左後方には同じく作業待ちの練習船大成丸(ex.小樽丸)が係船されていた。

船の写真展・ポスター
春洋丸のポスター
船の写真展・ポスター (1982)
横浜海洋科学博物館が開催した「船の写真展」(昭和57年11月8日〜12月5日)のポスター。小沢博氏提供による昭和6年(1931)12月横浜港新港埠頭に停泊中の日本郵船桑港航路の旅客船春洋丸の写真を使用した。
建造時の船主東洋汽船の社長淺野総一郎は天洋丸の姉妹船を千隻作るつもりで船名を千字文の「天地玄黄」から一文字ずつ取って天洋丸、地洋丸と命名したが第三船である本船は玄洋丸とすると黒い海となって具合が悪いので春洋丸と命名したという。船首のローマ字船名は SHINYO MARU と表記されているが日本海運発展史によると外国人はSHUNYOという発音を難しがるためSHINYO MARUと表記した、とある。

あるコンテナ船の記録
あるコンテナ船の記録 Japan Ace
昭和43年(1968)という年は日本の海運業界にとって記念すべき初のフルコンテナ船隊が就航した年である。その第1船箱根丸(日本郵船)に引き続き、海運大手5社は逐次新鋭コンテナ船を太平洋航路へ投入した。
ジャパンライン初のフルコンテナ船ジャパン エース Japan Aceは同年2月に相生の石川島播磨重工業で起工された。「あるコンテナ船の記録」は初代船長小泉勝太郎氏が”未知の船”コンテナ船の艤装員を命ぜられ本船の建造から処女航海にいたるまでの記録を「海上の友」誌に連載したものをジャパンラインが再編集した小冊子である。

 右上の写真は品川コンテナターミナルに近づくジャパン エース - 1982.5.23

大阪商船の二見丸の写真
二見丸
二見丸 Futami Maru

提供 Micah Gampel 協力:E.Kakehasi
京都府在住のMical Gampel氏から大阪商船時代の二見丸の写真を提供いただいた。撮影時期は明治32年(1899)ころ場所は長崎らしい。二見丸は港内を移動中で、後方には停泊中の英国Astraea級の二等巡洋艦らしき艦艇がみえる(写真下)。さらに二見丸の後檣の遠景に東洋汽船の旗を掲げたマストと煙突の一部が見られる。本船の写真は他にも存在するが、各部が詳細に看取できる貴重な写真である。
英国二等巡洋艦
提供 Micah Gampel 協力:E.Kakehasi

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