海と船の挿話 The episode of the sea and a ship 12頁 戻る

20次船・かりふおるにあ丸の遭難
かりふおるにあ丸
かりふおるにあ丸 California Maru
ペレット専用船 96389/JPTT 34,001G/T Lpp:210.13 B:32.20 D:17.80 m 主機 M.A.N. 1基 1軸 17,000PS 速力 15.5/17.3kt
三菱重工業株式会社横浜造船所建造 第876番船 1965.9.25竣工 第20次計画造船
SOS DE JPTT POSITION LAT 3510N LONG 14355E
昭和45年(1970)1月23日、第一中央汽船所有の鉱石運搬船かりふおるにあ丸はカイザーペレット60,157キロトンを満載し和歌山港に向け米国西海岸ロングビーチ港を出港、日本に近づいた2月9日、野島崎東方沖約200哩付近北緯35度10分東経143度55分で左舷船首10度の方向から来た異常な大波の外力を左舷船首部に受け左舷1番バラストタンク外板に破口を生じて浸水した。当時の天候は驟雨を伴う霧雨で42ノットばかりの西南西風が吹き、視界はややせばめられていたという。
本船が発信したSOSは、付近を航行中のニュージーランド船籍の貨物船Aotearoa(当時、日本人の保障技師2名が乗船中だったため連絡が順調に運んだ)と、川崎汽船の冷凍貨物船えくあどる丸が受信した。荒天下、難航していたAotearoaは救助のために針路を反転して翌10日午前3時30分、かりふおるにあ丸に接近すると危険を伴いながらも救命艇を降下、同7時本船から22名を救出したが3名が行方不明、住村船長は本船と運命を共にした。えくあどる丸は本船の1号艇とともに乗員2名を救出した。

主文 − 機船かりふおるにあ丸遭難事件 (海難審判庁裁決録)
「本件遭難は、かりふおるにあ丸が、カイザーペレツトを満載し、冬季に北太平洋を本邦に向け航行中、温暖な黒潮海域にはいり、予知できなかつた高層気象の変化に伴い大気がじよう乱し、これにより激しい突風が起こり、この影響で海面に発生した混乱波が、たまたま同調して異常な大波となり、この大波と本船とが遭遇し、瞬時に生じた一大破壊力をもつ外力を左舷船首部に受け、左舷一番バラストタンク付近の内部構造部材が崩壊し、同タンク外板に破口を生じて浸水したことに因つて発生したものである。」 (昭和四十八年七・八・九月分裁決録 第七・八・九合併号 別冊)
本船の遭難事故はその前年、ほぼ同じ時期同じ海域で沈没したジャパンラインの撒積貨物船ぼりばあ丸(20次)の遭難事故とともに「船舶の大型化の急展開のなかで、造船技術がそれに完全に追随できなかったこと」(創業百年史 - 商船三井)、「今度の事故で非常に残念に思うことは、船長が船と運命を共にしたこと」(毎日新聞)、「船長の運命を左右する船員法改正へ」などがクローズアップされる契機となった。

わが国初の本格的地質調査船白嶺丸 Hakurei Maru (1974)
海洋資源として注目を浴びたマンガン団塊(マンガン、ニッケル、銅、コバルト等を含む直径2〜4センチの球形)を探索するため、通産省(当時)が21億円をかけて建造した白嶺丸はわが国最初の本格的な地質調査船であった。
白嶺丸 Hakurei Maru
白嶺丸 Hakurei Maru

1987.11.10 - 船橋港
白嶺丸 Hakurei Maru 116256/JBHT 地質調査船 1,821G/T
Lpp:77.00 B:13.40 D:7.80 m 主機 ディーゼル 1基 1軸 3,800 PS 速力 15/17.78kt
起工:1973.4.19 進水:1973.10.16 竣工:1974.3.31 製造者:三菱造船株式会社下関造船所(下関) Sno.727
船主:金属鉱業事業団(東京) 白嶺丸 HAKUREI MARU 日本海事興業裸用船 研究員20 職員11 部員24

横浜港における関東大震災の通信状況
ぱりい丸 Paris Maru
大阪商船の貨客船ぱりい丸 Paris Maru (1922)
竣工間もない本船は地震発生時、姉妹船ろんどん丸と共に横浜港にあって罹災者の救助、通信活動に活躍した。大阪商船は本船を含めて合計21隻を救援活動に提供し約9千人の罹災者、救援活動者の輸送にあてた。外国船では当時大桟橋に停泊中の Empress of Australia (Canadian Pacific)や André Lebon(Messageries Maritimes)の救援活動が有名である。
号外
大正12年(1923)9月1日の関東大地震の際、横浜港に停泊していた内外の船舶は地震発生直後から救助活動にあたった。主な邦船は三島丸、丹後丸(以上日本郵船)、ろんどん丸、ぱりい丸、湖南丸(以上大阪商船)、これや丸(東洋汽船)、寶永山丸(三井物産)、鹿山丸、東華丸(以上川崎汽船)等である。
「住民は海上に碇泊している倫敦丸巴里丸に避難中」(大阪朝日新聞号外 1日)「静岡県運輸事務所は清水港から平明丸、玉取丸、海幸丸、たはらす丸、平洋丸の出帆要請」「大阪市長の要求により2日大阪港より天洋丸に食糧品219トンを載んで救助へ」(大阪毎日新聞号外 2日)「大阪市より救助第一船シカゴ丸出帆」(大阪時事新報号外 2日)等、大阪の各新聞号外は横浜港と救助活動要請の様子を伝えている。

全市ホトンド火ノ海ト化シ
東洋汽船のこれや丸は翌日の米国向け航海のため新港埠頭で荷役中だったが船長渡辺喜也は不在のため1等運転士菊池勇一が船を指揮し地震発生直後、岸壁を離れた。横浜市内の通信機能が麻痺したためにこれや丸には一時的に港務部、税関、県警等の仮事務所が設けられた。12時30分銚子無線局が「地震ノタメ横浜岸壁破壊シ死傷者多数ノ見込ミ」という一報をろんどん丸より受信。同局と通信を開始したこれや丸が13時17分「横浜地震後火災岸壁ニ近ヅク」と発信したのを潮岬無線局が傍受して大阪中央電信局に宛てた「横浜地震大火災ノ旨停泊船ヨリ銚子ヘ通信シオレリ」が災害地外への第一報といわれる。引き続きこれや丸は横浜の状況を発信した。「本日正午大地震起コリ引キ続キ大火災トナリ全市ホトンド火ノ海ト化シ死傷者幾万ナルヲ知ラズ、交通通信機関、水、食糧ナシ、至急救助乞ウ神奈川県」「地震ノタメ横浜ノ災害ソノ極ニ達ス、最大ノ救助求ム」。これらの情報は対米通信用の磐城無線電信局へ送られ局長米村喜一郎が直ちに英訳しホノルル、サンフランシスコへ送信されて大震災のニュースが世界へ伝わった。海運興国史によると震災の救助活動に従事した邦船は合計96隻となっ ている。
これや丸
これや丸 Korea Maru (1901)
丹後丸
丹後丸 Tango Maru (1905)

芦ノ湖の遊覧船 神山丸 Kamiyama Maru (1939)
神奈川県・箱根の芦ノ湖の遊覧船は海賊船を模した外観の遊覧船が有名だが、ここに掲載する神山丸は十数年前まで現役で活躍していた昭和14年進水のオールドタイマーである。
神山丸
神山丸 Kamiyama Maru

1983.6.5 - 関所跡
神山丸 Kamiyama Maru 昭和14年(1939)7月静浦ドックで進水。沼津方面に就航していた本船を元箱根で組立て芦ノ湖へ就航させた。
昭和44年(1969)4月改造。51総トン 主機ディーゼル 180PS 速力 11ノット
L:21.34 B:3.35 D:1.36 (m) 定員171名 所有者:伊豆箱根鉄道株式会社
船歴資料 横浜海洋科学博物館

わが国初の大型ディーゼル船 三井物産船舶部・赤城山丸 Akagisan Maru (1924)
赤城山丸
赤城山丸 Akagisan Maru
昭和初期の世界的恐慌の中で各国の海運会社は運航費の節約による採算の向上のため競ってディーゼル船の建造をすすめた。わが国最初の航洋大型ディーゼル船として著名な三井物産船舶部の赤城山丸(4,715G/T)は三井物産造船部玉工場で大正13年(1924)7月に竣工した。
三井物産造船部のディーゼル機関の研究は造船設計課長北郷七次が船鉄交換船引渡しのため米国へ出張した帰り、ヨーロッパの造船界を視察しデンマークのB&W社の盛況ぶりを報告したことを受けて開始された。しかし船舶部機関長川合菊平氏の回顧録(三井船舶「創業八十年史」に収録)によると当時の船舶部長川村貞次郎は当初ディーゼル機関の採用には慎重で大正11年(1922)7月にいたってようやく三井物産本店の正式許可をとりつけたという。
船舶部では大正10年(1921)に造船部と仮契約していた6,400重量トン級の貨物船2隻の第1船(赤城山丸)にディーゼル機関を採用し、主機の関係で船体を10フィート伸ばして7,500重量トンに変更した。第2船(秋葉山丸)には従来の蒸気機関を採用しディーゼル船と運航上の経済的特質を比較することとした。
両船を北太平洋航路で比較した結果、赤城山丸は秋葉山丸が重油燃料を使用した場合よりもなお1航海において20,172円余り有利に運航することができ、これによってモーター船は汽船と比較してその燃料費、修繕費、人件費の減少、速力の増加ならびに機関室容積の減少による積貨量の増大等によって収益力が非常に増加することが証明できた、と報告された。
赤城山丸のディーゼル主機(2,000軸馬力、定格出力1,600制動馬力)は大正12年(1923)3月神戸のマックス・ウェルス商会を通じてデンマークのB&W社に発注された。
ところがこれより先、大正10年(1921)に川崎造船所は同所で建造中の貨物船ふろりだ丸(5,845G/T)用のフラガー型対向ピストンディーゼル主機を英国ジョンブラウン社に発注し、また取扱者を同社に派遣していたものの機関の完成がおよそ1年も遅れたために惜しくもわが国初のディーゼル船としての名を逸した、と「川崎汽船五十年史」には記載されている。

近海郵船・朝日丸の転覆事故
転覆した朝日丸

(上)転覆した朝日丸
(右)復旧後、出港する朝日丸

- 新三菱神戸造船所五十年史より -
朝日丸 Asahi Maru
支那事変により呉海軍工廠で海軍の特設病院船に改装された朝日丸(9,327G/T)は昭和13年(1938)3月、中間検査修理と病院設備改造のため三菱神戸造船所の第1岸壁に係留中、26日明け方突然左舷に急傾斜を始め、55度傾いて左舷遊歩甲板室まで水没し、船底が海底に固着した。日本サルベージの救援を得て5月3日浮揚に成功、復旧工事が完了したのは約1ヵ月後の6月9日であった。原因について同所の社史には記載はない。
朝日丸は近海郵船が同型船大和丸とともに昭和3年(1928)イタリアのTransatlantica Italiana Societa Anomima di Navigazioneから購入し同社の台湾航路に就航させた。昭和14年(1039)9月合併に伴って日本郵船へ移籍され昭和19年(1944)2月5日呉から神戸に向け航行中、瀬戸内海備讃瀬戸牛島付近で満珠丸と衝突し任意座洲した。放棄された船体は太平洋戦争後の昭和24年(1949)に解体された。

東洋汽船・地洋丸の座礁事故
Chiyo Maru (TKK) Chiyo Maru (TKK)
Bill Schupp
大正5年(1916)3月31日未明、マニラより香港に向けて航行中の東洋汽船の大型旅客船地洋丸(1907年進水 13,426G/T )は香港沖担杆島北東端で座礁事故を起こした。この事故を記録した「魔の山」と題する写真集の画像をBill Schupp氏よりご提供いただいたのでここに紹介したい。「百方救助に努めたが、何分全速力で座礁したため離礁できず4月5日に至り第三船艙より両断し、救助の見込みが全くなくなったので4月27日ついにこれを放棄した。幸いに人命にはほとんど危害なく、喪失後の始末も案外早く片付いたのは不幸中の幸いであった」と「六十四年の歩み」には記録されている。本船にはSchupp氏の祖母にあたる方が日本に向けて乗船され、氏は当時の状況などの情報を収集中とのことである。

清水菊平とMSディーゼル機関
北海丸主機 北海丸の主機 (6MS 72/125 3,600BHP)

北海丸
北海丸
大正13年(1924)7月スイスのズルザー社と技術提携した三菱長崎造船所は同所製作の第1号機6ST60型 2,300馬力のディーゼル機関を大正15年(1926)8月に竣工した大阪商船のもんてびでお丸の片舷機として搭載した。
当時、世界の大型ディーゼル機関は全て空気噴射式であったが、中型4サイクル機関では英国のビッカース社、ドイツのマン社がすでに無空気噴射式を採用していたためこれが大型の2サイクル機関に及ぶのも必至とみられた。
三菱長崎はビッカース社の無空気噴射式に精通していた清水菊平を三菱内燃機から転任させて大型2サイクル無空気噴射式ディーゼル機関の掃気方式と燃料噴射法との基礎から研究を開始し、苦心の末にMSディーゼル機関の開発に成功した。この1〜4号機は大阪商船が発注した大型貨物船南海丸と北海丸にそれぞれ2基ずつ搭載された。
MSという名称は「創業百年の長崎造船所」(昭32 三菱造船)によると元来は Marine Single-Actingの頭文字をとっていたところ提携先のズルザー社との関係から Mitsubishi Sulzer と混称されるので当時の所長・元良信太郎が重役会議にて発明者の清水菊平に敬意を表して「三菱・清水」のイニシャルの意味だと決めたという。

英国ロブニッツ造船所建造船
洞海丸
ポンプ式浚渫船 第四洞海丸 Dokai Maru No.4
若松築港株式会社所有の鋼製ポンプ式浚渫船。明治34年(1901)5月、英国レンフリューのロブニッツ造船所で進水した。7822/JNAE 878総トン 主機レシプロ 2基2軸。明治40年(1907)9月大蔵省が27万679円で購入、洞海丸 Dokai Maru と改名、のち内務省に移管。神戸港の第1期工事に従事。太平洋戦争後も活躍し昭和38年7月2日売却、後解体。ロブニッツ造船所が建造した邦船には山高五郎氏の紹介で著名な日本赤十字社の博愛丸、弘済丸、逓信省の沖縄丸等がある。
高橋慶治氏の「洞海丸の思い出」には昭和23年頃酒田港の航路整備に当時伏木港に係留中だった600トン級のバケット船洞海丸(戦時中、軍が使用)が使用されたとある。トン数、バケット式という点が若干異なるが、高橋氏は同船を上架準備作業中にボイラ下の船底から本船の銘板を発見、そこには1900年、イングランド・ロブニッツと刻まれていたというから本船であることは間違いないようである。
「明治37年〜38年の日露戦争中ウラジオストックにあった本船を分捕り八幡製鉄で洞海湾の浚渫に従事、その後海軍が舞鶴軍港の浚渫に使用したという説」も紹介されているのが興味深い。
沖縄丸
沖縄丸 Okinawa Maru (1896)

東洋汽船の1915年(大正4)カレンダー
(C) Yokohama Maritime Museum 東洋汽船が発行したカレンダー。絵の下部には「北米航路 桑港 ホノルル 横濱 神戸 長崎 上海 マニラ 香港間 米国各横断鉄道と連絡す…」とあり北米航路は天洋丸、地洋丸、春洋丸、日本丸、南米航路は安洋丸、紀洋丸、靜洋丸の船名が載っている。靜洋丸が横浜に回航されたのが1916年(大正5)であり、またこの年の3月31日に地洋丸は座礁沈没しているためカレンダーに記載されている船が揃った時期はきわめて短期間だった。


横浜マリタイムミュージアム蔵  

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