戦後占領期 海運再建に向けて 昭20.8(1945)〜昭27.4(1952) 戻る

戦後占領期・概況

賢洋丸
昭和海運の賢洋丸 Kenyo Maru (1944)

もと東洋汽船の2D型戦標船。鹿児島県桜島北方沖合で沈没したが昭和23年に引揚げ修理された。
昭和21年(1946)4月、戦時補償特別措置法が公布され当時の金で25億6000万円という補償が打切りとなり、海運会社は新造船建造に必要な資金源を失った。このため政府は翌昭和22年(1947)1月に復興金融金庫を設置し海運業に対する融資を行った。
戦時中の計画造船の一元的発注機関であった産業設備営団は連合軍総司令部により閉鎖機関に指定されたためその後を継いで昭和22年(1947)4月の船舶公団法に基づいて船舶公団が設立された。その基本金を全額政府が出資し、運営資金を復興金融金庫から借り入れた。海運業者は船舶公団と共有の形で続行船の工事継続、戦標船の改造、沈船の引き揚げ修理を行うことができるようになったのである。

船舶の再整備

太平洋戦争終戦時の商船は大半が戦時急造の戦標船であった。残存した在来船も航行不能の状態のものもあり修理、改造が各地の造船所で実施された。
残存船舶
計画造船・改造(A型TL型)
第三圖南丸
第三圖南丸 Tonan Maru No.3 (1938)
トラック島で横転沈没状態にあったもと日本水産の鯨工船第三圖南丸は播磨造船所により浮揚された。写真は昭和26年(1951)4月、玉榮丸と君島丸に曳航されて相生沖に到着した第三圖南丸。

漁船の大量建造

戦後の食糧難に対処するため各地の造船所で漁船の大量建造が行われた。
三菱長崎
戦後間もない三菱重工業長崎造船所
三菱重工業長崎造船所の艤装岸壁に勢ぞろいした小型漁船群。戦後間もなく大量の漁船が建造された。画面右上遠景に見えるのは信濃丸と思われる。

外航の再開

日洋丸(日産汽船)
日産汽船の貨物船日洋丸 Nichiyo Maru (1952)

N.K.K.,Tsurumi
ブリッジ下の船体にSCAJAP番号(スカジャップ・ナンバー)が見える。GHQが外航船に国旗掲揚、SCAJAP番号の標示撤廃を許可したのは昭和27年(1952)4月1日のことだった。
Scajap旗 スカジャップ旗

輸出船

GHQの斡旋により日本政府と米国、フランス、デンマーク、ノルウェー、フィリピン等と鋼船輸出契約の商議がすすめられ、最初にノルウェー向けの2隻の捕鯨船が契約された。受注した播磨造船所は「戦後初の外国の注文船であるので設計、施工共に非常に慎重に行われ、戦時中の荒廃した技術を一挙に戦前の優秀な技術に戻す意気込みで全員張り切って工事を進めている」(「船の科学」昭和23年11月号)様子だったという。
KNURR
Knurr (1948)
昭和23年(1948)にノルウェーのHvalfangerselskapet Antarctics A/S社向け捕鯨船として三井造船玉野製作所で建造されたKNURR(クヌール、488総トン)。戦後、わが国最初の輸出船として播磨造船所と三井造船で2隻建造された420総トン級の捕鯨船のうちの1隻。播磨造船所建造のSUDEROY XI(スーデロイ、Knut Knutsen O.A.S.社向け、491総トン)が最初に完成した。

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