日之出汽船株式会社小史 - 創業期から海運集約期まで 戻る

創業から海運集約期まで
日之出汽船株式会社は大正元年(1912)11月25日に浅野總一郎が発起人となり資本金50万円で発足した浅野,尾城系の海運会社である.初代社長には浅野の長男泰治郎が就任し,浅野は相談役となった.創業と同時に尾城汽船から明保野丸,磯部丸,袖ケ浦丸,土洋丸の4隻の汽船を55万5千円で購入して営業を開始した.しかし間もなく磯部丸を事故で喪失し,また明保野丸の事故などが加わって多額の欠損金を出してついに大正3年(1914)には3隻ともに山下汽船に売却することとなった.その後,約7年間は船を持たない休業状態が続いた.
明保野丸 Akebono Maru
明保野丸 Akebono Maru (1883)

T.Ueno

浅野造船所のストックボートを購入
営業再開と同時に浅野造船所から3隻のストックボート(勢洲丸,相洲丸,對洲丸)を60万円で購入した.このストックボートは浅野造船所が同社で建造する船を4種類の標準船としA,B,C,D型と称したうちのD型ストックボートである.これらの船を沿海州,中国北部,朝鮮北部に配船して不況下にもかかわらず運航船舶を着実に増やしていった.大正15年(1926)に勢洲丸と同型の若葉丸(武洲丸と改名)を購入し,昭和3年(1928)には中古船長久丸を購入して所有船舶は5隻10,500重量トンとなった.また荷動きに応じて運航受託船や用船を増やした.昭和9年(1934)5月末の運航船舶数は,用船10隻を加えて合計15隻,27,695重量トンになっている.
勢洲丸 Seishu Maru
勢洲丸 Seishu Maru (1919)

昭和初期から太平洋戦争まで
昭和に入ってから計画,建造された八幡丸(1)は日之出汽船の戦前の代表的貨物船であると同時に多数の同型船が各地の造船所で建造され,非常に成功したタイプの貨物船であった.日之出汽船では工業製品の大型化,長尺化を予測して,特殊船の検討を進めていた.そして浅野造船所の協力のもとに第一船八幡丸(1)が完成した.この船型その後いろいろな造船所で建造された,いわゆるD型船の第一船でもあった.
D型船の特徴は次の点にあった.
・船体中央に長さ25mに及ぶ船艙を配置
・主機を後部に置いた船尾機関型の船型
・35トンのヘビーデリックと強力なウィンチを装備
・経済的な理由からレシプロ主機,ボイラーは石炭焚き
D型船はもともと船舶改善協会が中心となって制定した平時標準船のひとつで,三島型の船型を採用した近海用のレシプロ主機の貨物船を指した.第一次戦時標準船D型に八幡丸(1)の船型が採用されると一般的にD型船というのは八幡丸型の船型の貨物船を指すようになった.
八幡丸 Yawata Maru
八幡丸 Yawata Maru (1935)
日之出汽船ではさらに同型船の住吉丸(1),明治丸(1),香取丸(1),三島丸と,やや小型の豐國丸を浅野造船所で建造するとともに,豐國丸とほぼ同型のストックボートを大阪造船所から購入して西京丸と命名した.さらにD型船の拡大改良型ともいえる五十鈴丸(1),多賀丸(1)を昭和15年(1940)までに就航させた.また長久丸を北陸汽船に売却して,同社より北成丸を購入,川崎汽船からは玉榮丸を購入して船腹の充実をはかったが,玉榮丸はまもなく事故で喪失した.
開戦が押し迫った昭和16年(1941)には平時標準C型貨物船吉備丸(1)が竣工した.戦時中の取得船舶は全て戦時標準船で,2D型の近江丸,多賀丸(2),明治丸(2),住吉丸(2)と2E型の安房丸,鹿島丸,秩父丸,香取丸(2)の8隻であった.また戦争中に16隻の船舶を喪失し,残存したのは2D型3隻,2E型2隻の戦時標準船のみであった.

戦後占領期
日之出汽船では残存した船が劣性能の戦時標準船であるとはいえ5隻という数は決して少ない隻数ではなかった.また沿海に沈没した船を引き揚げることができたことも同社にとっては幸いであった.すなわち昭和21年(1946)には駿河湾で相洲丸,23年(1948)には岡山県牛窓沖で勢洲丸,24年(1949)には備後灘で三島丸をそれぞれ引き揚げて修理することができ,同年12月までには3隻ともに再就航した.一方,新造船については第2次,第3次計画造船でKD型とD型各1隻を建造して日光丸,日吉丸と命名した.両船は主機こそ異なるものの主要寸法はほぼ同じで戦前の八幡丸型に準じた貨物船であった.
日光丸 Nikko Maru
日光丸 Nikko Maru (1948)

本格的な重量物運搬船の建造を開始
第5次計画造船で建造された日枝丸はわが国で初めて70トンのヘビーデリックを装備した本格的な外航重量物運搬船であった.本船は日之出汽船の長年に渡る経験に基づいて設計された船で長船尾楼を有する三島型船型を採用した.70トンのヘビーデリックは従来の貨物船で用いられた形式とは異なり,通常のデリックと同形式のものでステイを用いずに3脚式のデリックポストを採用した.主機の「浦賀式低圧タービン付復二段膨張レシプロ機関」は熱効率の非常に悪い高圧タービンを改善するために高圧部と中圧部にレシプロ機関を,低圧部にタービン機関を配置したもので蒸気効率と推進効率のバランスをとることができた.また特殊な操縦装置によりタービンは前後進に両用可能であった.6次船の五十鈴丸(2)と8次船の神路丸は日枝丸をひとまわり大きくした船体に70トンヘビーデリックを装備した.これら3隻の外航重量物運搬船はインド,東南アジア方面で鉄道用車輌や小型船舶輸送に活躍した.
日枝丸 Hiye Maru
日枝丸 Hiye Maru (1950)
さらに念願の外航進出のために第5次,6次,8次,9次後期計画造船に応募し,外航進出の基礎を固めた.このようにして昭和29年(1954)までに日枝丸,五十鈴丸(2),神路丸,春日丸(1)の4隻が竣工した.一方で船腹不足に対処するため昭和26年(1951)8月に愛宕丸(1)を購入し,昭和29年(1954)4月には受託運航中の南国船舶の英峰丸が債務不履行で差押えられたために肩代わり購入した.2隻とも30年 (1955)には宮地汽船に売却された.

海運集約時までの重量物運搬船
南米方面にも輸送量の増大が見込まれたため載貨重量10,000トンの重量物運搬船が計画され,第9次後期計画造船に応募して建造された.この船はわが国で最大の120トンヘビーデリックを装備し春日丸と命名された.本船の荷役装置は従来の振り回し方式のデリックとは異なるメインガイ方式を採用した.これはデリックブームのカーゴフック付近からメインガイを四方にとり,荷物の移動や荷役中の貨物の振れ止めを兼ね備えたものであった.また建造には昭和 28年(1953)に公布された外航船舶建造融資利子補給法及び損失補償法,臨時船質等改善助成利子補給法によりE型船の安房丸,香取丸を解体した.
海運集約時までの重量物船隊の整備状況は重量物やプラントなどの大量輸送が見込まれたため計画造船,自己資金船による新造のほか定期用船を前提として関連会社において新造船を進めた結果,船隊は社船10隻,用船8隻の陣容となった.重量物輸送の主体であった車輌,小型船舶に加えて,ブラジルのミナス製鉄所建設用資材やアラビア石油開発向け建設,開発資材などのプラント輸出が大量に見込まれたため取り扱い船舶を増やしていった.
昭和34年(1959)までに五十鈴丸(2)を改良した自己資金船愛宕丸(2),12次船吉備丸(2),14次船熊野丸の3隻を建造した.大きさこそは同程度であったが五十鈴丸(2)のセミアフト船型,レシプロ機関に対して愛宕丸(2)は完全な船尾機関,船尾楼船型であり,主機には初めてディーゼル機関を搭載した.重量物運搬船の主機には振動が少ないなどの理由からタービン機関が採用されていたがディーゼル機関でも大差の無いことが確認された.愛宕丸(2)はこの船型を採用したおかげで春日丸(1)に匹敵する25メートルのロングハッチ2個を設けることが出来た.荷役装置は95トンのヘビーデリック2本が設けられている.吉備丸(2)は愛宕丸(2)に比べヘビーデリックが110トンにパワーアップされているが両船はほぼ同型である.
12次船吉備丸(2)を建造後,13次計画造船では東洋汽船から新造船の共有建造の申し入れにより30トン・ヘビーデリックを持つ一般貨物船旭洋丸が建造され管理運航は日之出汽船が行なった.続く14次で建造された熊野丸は愛宕丸(2)をタイプシップとしたが外観はかなり異なっていた.ヘビーデリックを前後2艙に共用できる3脚のトリポッドマストを初めて採用して,凌波性の向上をはかるために長船首楼船型としている.トリポッド式のヘビーデリックは両舷同一の作業が出来ないなどの欠点がある反面,従来のキングポスト式に比べて軽量で廉価であり船価の低減につながるため以後の数隻の新造船にも採用された.
春日丸 Kasuga Maru
春日丸 Kasuga Maru (1954)

海運集約期
日之出汽船の主要貨物であるプラント等の重量物の荷動きはブラジルのウジ・ミナス製鉄所の建設資材輸送が開始された昭和35年(1960)頃から活発になった.第18次計画造船の審査において関係当局の行政指導があり,定航大手4社との重量物輸送における過当競争を排除するために日之出汽船の今後の増資に際しては4社が資本参加することなどが取り決められた.
那智丸 Nachi Maru
那智丸 Nachi Maru (1963)
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昭和57年(1982)1月18日相生市の石川島興業解体所で解体を待つ那智丸.左後方には同じく作業待ちの練習船大成丸(ex.小樽丸)が係船されていた

H.Iwase

モジュール船の出現
春日丸(2)が450トンの超ヘビーデリックを搭載したのを契機として大手船会社でもこれを上回る能力のヘビーデリックを装備する重量物運搬船が建造され始めた.しかしプラント輸出先は未開発地域が多いために,現地組み立てよりもブロック化されたモジュールの完成品輸送方式のほうがコスト面からも有利であることなどから,今後のプラント輸送はモジュール輸送が大きなウェイトを占めるであろうということが予測された.
単体で3000トンもの重量物を本船に積むためにはヘビーデリックによる従来のようなリフトオン・リフトオフ方式では無理であるため,ロールオン・ロールオフ(Ro/Ro)方式による積み込みとし,広大なデッキスペースの確保,未開発地域の水深を考慮した浅喫水の船型の採用など従来の重量物船の船容とは一変した船体が出現した.
この船は日之出汽船の海外子会社であるEstrellado Maritimo Compania (PANAMA) S.A.が建造,日本鋼管清水造船所で昭和53年(1978)に竣工して,ガルフ・ブリッジと命名された.続く第2船は,海運市況の影響や船価の面から建造が見送られていたが,昭和57年(1982)に川崎重工で起工され,シー・ブリッジと命名された.これらのモジュール船の出現により従来の重量物運搬船のデリック自体の大型化は終了した.
春日丸 Kasuga Maru
春日丸 Kasuga Maru (1976)

1978.9.25 水島港 - K.Sato
昭和57年度からはプラント輸出の減少,不定期船市況の低迷や日本郵船,商船三井,山九の3社が新日本モジュールプラントサービスを設立するなど競争が激化してきた.その一方で船隊は用船も含めて船齢が10年以上経過し,老朽化が進んだ船が多くなったため23,000重量トン,200トンヘビーデリックを装備する重量物運搬船の建造を決定し,日本汽船との共有船も含めて昭和58年(1983)に春栄丸,住吉丸(3)が竣工した.
さらに丸二商会との共有船昭博丸の代船として昭和56年(1981)今治造船で撒積貨物船を共有建造して江栄丸と命名した.また第37次計画造船では昭和海運との共有で撒積貨物船昭豪丸を建造し,昭和57年(1982)に日本鋼管鶴見製作所で竣工した.
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