小史 - 合併と山下新日本汽船グループの形成 次頁 戻る

海運集約による6中核体のひとつとして山下新日本汽船グループがスタートしてから平成元年(1989)5月にジャパンラインと合併してナビックスラインとなるまでの25年間に継承船を除き96隻の船腹が新造あるいは購入された.本項はそれらの社船を中心とした山下新日本汽船の船舶史である.小史は同社の「社史 合併より十五年」,各年度の「会社概況」等を主要参考資料とした.
新米州丸 Shin-Beishu Maru
新米州丸 Shin-Beishu Maru (1983)

合併と山下新日本汽船グループの形成
昭和38年(1963)に公布施行された海運再建整備ニ法による中核会社の形成に向けて同一金融機関系の海運会社の合併が比較的スムーズに進行した.共に三和銀行をメインバンクとし主要造船所も日立造船という共通点をもつ山下汽船と新日本汽船の合併へ向けての両社社長の話し合いは海運ニ法の成立以前にすでに開始されていた.中核会社はグループ全体で保有する外航船腹量が100万トン(当初総トン数,のちに海運業界の要望で重量トンに変更)以上が条件であった.グループを形成する過程で日正汽船は日産汽船との古くからの結びつきで日産汽船・日本油槽船グループからの強い要望があったが最終的に山下汽船・新日本汽船グループの系列会社としての参加が決定し山下汽船は昭和39年(1964)1月1日に商号を山下新日本汽船株式会社と変更,同年4月1日に新日本汽船を吸収合併する形で新会社を創立した.

昭和39年(1964)4月1日現在
合併会社 2社
山下汽船・新日本汽船(44.7隻,570,031D/W)
系列会社 4社
日正汽船(8.5隻,178,363D/W)・玉井商船(4隻,60,471D/W)・森田汽船(*1)(4隻,140,572D/W)
中村汽船(*2)(6隻,36,459D/W)
専属会社 9社
山和商船(5隻,26,926D/W)・山下近海汽船(*3)(0.5隻,3,875D/W)・山友汽船(2隻,6,509D/W)
樽本汽船(*4)(0.5隻,2,641D/W)・双葉海運(*5)(0.5隻,17,048D/W)・甲南汽船(*6)(2.5隻,18,483D/W)
旭海運(*7)(5隻,32,148D/W)・新日立汽船(*8)(0.6隻,27,766D/W)・鶴丸汽船(*9)(0.2隻,1,132D/W)
合計 14社
84.0隻 1,122,424D/W
大株主
日立造船・東京海上火災保険・日興証券・住友海上火災保険・三和銀行 等
参考:
(*1)森田汽船は昭和45年(1970)7月1日に雄洋海運株式会社に社名変更
(*2)中村汽船は昭和44年(1969)5月7日に離脱し日本郵船グループ傘下となる
(*3)山下近海汽船は昭和43年(1968)11月1日に設立された専属会社山下新日本近海汽船に
 昭和44年(1969)2月1日,吸収合併
(*4)樽本汽船は昭和43年(1968)6月29日に整備法上専属関係消滅
(*5)双葉海運は昭和45年(1970)10月1日に山和商船を吸収合併し山和商船と改名
(*6)甲南汽船は昭和43年(1968)1月1日に山栄船舶へ吸収合併
(*7)旭海運は昭和39年(1964)7月15日に離脱し日本郵船グループ傘下となる
(*8)新日立汽船は昭和39年(1964)7月22日に双葉海運へ吸収合併
(*9)鶴丸汽船は昭和40年(1965)8月20日に整備法上専属関係消滅

合併時の継承航路


ニューヨーク航路
昭和31年(1956)に米国United Satates Lines Co.のマリナー型高速貨物船が就航すると日本船社はそれに対抗して高速貨物船隊の整備を開始した.山下汽船の主力ニューヨーク航路は昭和33年(1958)から高速化が図られ,第13次計画造船による山若丸(9,293G/T),山君丸(9,274G/T)から続く14次の山隆丸(9,307G/T)と16次の山昭丸(9,300G/T)まで4隻の高速貨物船が就航した.一方の新日本汽船も13次から15次までに賀茂春丸型4隻がニューヨーク航路に就航した.山下汽船の新造船は日立造船の桜島工場,新日本汽船の新造船は同じく因島工場で建造され,いずれも主要寸法は同一であった.昭和40年代に入ると世界の各定期航路は暫時コンテナ化されていったがニューヨーク航路はわが国で最初にコンテナ化された加州航路に遅れること4年後の昭和47年(1972)に第1船が就航した.
山君丸 Yamakimi Maru
山君丸 Yamakimi Maru (1958)

ガルフ航路
メキシコ湾のガルフ航路には新日本汽船が16次で土佐春丸,17次で佐渡春丸の2隻の準高速定期船を建造して外国船社の高速船に対抗した.合併時には多賀春丸を加え,3隻により年間12航海のサービスとした.
多賀春丸 Tagaharu Maru
多賀春丸 Tagaharu Maru (1958)

北太平洋航路および加州航路
山下汽船の北太平洋航路(PNW)はニューヨークから各国船社の高速化により転配された船腹により昭和32年(1957)2月に日本/北太平洋定期航路として開設された.続いて翌昭和33年(1958)1月には加州航路(PSW)が開設された.新日本汽船は昭和34年(1959)4月に北太平洋航路,昭和38年(1963)7月に加州航路が開設された.
山照丸 Yamateru Maru
山照丸 Yamateru Maru (1951)
武庫春丸 Mukoharu Maru
武庫春丸 Mukoharu Maru (1952)

豪州航路
豪州航路は大正13年(1924)に山下汽船が川崎汽船,國際汽船と3社で同盟加入が難航したため盟外配船に踏切り,激しい運賃競争が続いた結果,翌14年11月に加盟が認められ3社はJAL(Japan Australia Line)を結成し各社年間4航海のサービスを実施した.このような過去の実績もあったが太平洋戦争後の配船再開はなかなか許可されず,山下汽船は川崎汽船とさらに三井船舶を加えた3社で戦前と同様なJALを結成し荷主の支援も受けてようやく昭和29年(1954)1月に年間9航海で加入が承認され,同月30日に山春丸がJAL再開の第1船として大阪港を出航した.合併時は山利丸と山月丸の2隻により年間6.3航海のサービスであった.
山春丸 Yamaharu Maru
山春丸 Yamaharu Maru (1954)

インド・パキスタン・ペルシャ湾航路
インド・パキスタン・ペルシャ湾航路は昭和25年(1950)4月の海運民営還元後に邦船各社が航路の開設申請を行った結果,日本郵船・三井船舶グループ,大阪商船・新日本汽船・山下汽船グループおよび国際海運(飯野海運・日産汽船・東邦海運・三菱海運)グループの3グループに年間24航海の配船が許可された.昭和27年(1952)に同盟が結成されると加入を認められなかった新日本汽船と国際海運が盟外配船を開始したため激しい運賃競争が展開された.そして昭和29年(1954)6月に東邦海運が国際海運グループから離脱すると新日本汽船は三菱海運,飯野海運,日産汽船の4社でJIPライン(Japan Inddia Pakistan Line)を結成し共同配船による月2航海の配船の条件で同盟に加入を申請した.その結果,12月1日から準会員としての加入が認められて抗争はようやく終了した.合併時は年間9航海の配船となり就航船は山朝丸,山花丸,辰春丸の3隻であった.
辰春丸 Tatsuharu Maru
辰春丸 Tatsuharu Maru (1939)

コロンボ航路
昭和33年(1958)2月,JIPラインがインド・パキスタン・ペルシャ湾航路から分離独立させてコロンボ定期航路を開設した.新日本汽船は天拝山丸(用船)を就航させていたが昭和38年(1963)にはベースカーゴのセメント引受け輸送の中断やコロンボ港の慢性的な船混みにより配船が休止されたまま引継がれた.
天拝山丸 Tenpaizan Maru
天拝山丸 Tenpaizan Maru (1926)

ナホトカ航路
山下汽船は日ソ国交正常化以前にソ連極東船舶公社(FESCO)の代理店を引き受けるなどの実績があったので昭和33年(1958)に川崎汽船,飯野海運の3社と共に日本/ナホトカ定期航路(JNL,Japan Nakhodka Line)の開設には幹事会社として主導的な役割を果たした.合併時には山彦丸が就航,年間6~7航海のサービスであった.
山彦丸 Yamahiko Maru
山彦丸 Yamahiko Maru (1951)

沖縄航路
山下汽船が開設し,合併時は山幸丸(山和商船),山美丸(山友汽船)等の用船が就航.昭和46年(1971)7月に沖縄の本土復帰に伴い当航路は内航となったため航権は山下新日本近海汽船へ移管された.

不定期船
合併時の不定期船91隻(628,846重量トン)のうち専用船は4隻であった.
予州丸 Yoshu Maru
予州丸 Yoshu Maru (1960)
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