南米航路 - 海運再建期 戻る

西航南米線 大阪商船(株) 昭和初期昭25.12(1950)再開海運再建期-海運集約期
昭和28年(1953)4月,日本アルゼンチン通商協定が締結され一時的に活況を呈したがその後は荷況が悪化し改善されることがなかったため昭和33年(1958)4月船まで南米寄港を中止しケープタウン折り返しの定期とした.同年,荷況好転の兆候が見えたので関東丸(用船)より再び南米に延航した.
1956.12(昭31)~33年4月迄南米寄港を中止しケープタウン折り返しとした
1958.5(昭33)南米延航を再開.復航はメキシコ湾日本線とした[船]関東丸(用)

関東丸 Kanto Maru (1955)
1959.3(昭34)復航を再度アフリカ経由とした[航]年12回
東航南米線 大阪商船(株) 昭和初期昭28.5(1953)再開海運再建期-海運集約期
昭和27年(1952)ブラジル政府は中部ブラジル地区にも入植を許可したので日本政府は移民行政機関の整備を急ぎ,大阪商船に対しても移住者輸送の復活を強く要望した.同年さんとす丸を建造して西航南米線に配船したが昭和28年(1953)4月,日本アルゼンチン通商協定締結に伴う荷動きが活況を呈し,また南米移住者の本格的輸送をはかるため東航南米線を再開し,さんとす丸を第1船としてパナマ経由南米に差し立てた.
大阪商船には南米航路における移住者輸送の歴史があり,ブラジル政府も移民受入に積極的であったために同社はRoyal Interocean Lineと協定を結び,貨客船さんとす丸の旅客設備増設,あめりか丸型貨物船の移民船への改装を順次実施して移民船船隊の拡充に努めた.
1953.4.13(昭28)あめりか丸,移民船に工事着手

あめりか丸 America Maru (1950)
新三菱重工業神戸造船所で移民船へ改装工事中の後部上甲板の状況.貨物船から移民船への改装にあたり中甲板を6室に区切って船室とし復航時は貨物艙として使用するためにベッドを折りたたみ式とした.船室は1等12名,移住者用の3等524名で他に産室,隔離病室,浴場,理髪室等を完備した.
1953.5(昭28)東航南米線再開.第1船さんとす丸パナマ経由南米に差し立て[船]さんとす丸

さんとす丸 Santos Maru (1952)
1953.6.1(昭28)あふりか丸,移民船に改装工事完了[船]さんとす丸,あふりか丸
1953.6.17(昭28)あめりか丸,移民船に改装工事終了[船]あめりか丸,さんとす丸,あふりか丸

あめりか丸 America Maru (1950) 移民船に改造後の姿
1953.7(昭28)あふりか丸,移民船に改装後就航[港]{往航}神戸/名古屋/横浜/ロサンゼルス/クリストバル/カルタヘナ/キュラソー/ラガイラ/ベレン/リオデジャネイロ/サントス/モンテビデオ/ブエノスアイレス{復航}サントス/リオデジャネイロ/イレウス/キュラソー/クリストバル/ロサンゼルス/横浜/名古屋/四日市/大阪/神戸[航]年12回[船]あふりか丸,さんとす丸,あめりか丸,北海丸(用),月光丸(用)

北海丸 Hokkai Maru (1952)

月光丸 Gekko Maru (1951)

あふりか丸 Africa Maru (1951) S.Kizu
1954.7.30(昭29)戦後初の新造移民船ぶらじる丸就航.東航南米線が再開されると大阪商船は同航路へ本格的な移民船の投入を計画していたが,外務省の積極策により移民船建造が具体化し,第9次後期計画造船による戦後初の移民船ぶらじる丸が昭和29年(1954)に就航した.本船は10,100総トン,ディーゼル主機を搭載し最大速力は20.3ノット,旅客設備は1等12名,2等68名,3等902名の貨客船で同年7月30日神戸港を出航し南米への処女航海の途についた[船]ぶらじる丸,さんとす丸,あふりか丸,あめりか丸

ぶらじる丸 Brasil Maru (1954)
1954(昭29)往航レシーフェ,復航リオグランデに定期寄港
1958.4(昭33)ぶらじる丸よりやや大型のあるぜんちな丸が就航し合計5隻の移民船によるマンスリー・サービスが実現した.しかし乗船移住者は昭和34年度の6793名をピークとして以降激減し,船価高からくる資本費の負担が経営の重圧となった.運輸省から移民船5隻を分離し,新会社へ譲渡して経理内容を改善するよう勧告があったため昭和38年(1963)に資本金1億円で日本移住船株式会社が設立された.[船]あるぜんちな丸,ぶらじる丸,さんとす丸,あふりか丸,あめりか丸

あるぜんちな丸 Argentina Maru (1958)
極東/中南米西岸航路 川崎汽船(株) 昭28.9.12(1953)再開-海運集約期
昭和28年(1953)9月12日,神戸港出航の和川丸を第1船として再開.当初は船腹不足のため横浜下旬出航の隔月配船の定期サービスとした.
1953.9.12(昭28)再開[港]{往航}神戸/名古屋/清水/横浜/バンクーバー/シアトル/ポートランド/サンフランシスコ/ロサンゼルス/アカプルコ/サンホセデグアテマラ/ラリベルタード/アマパラ/コリント/プンタレナス/ベナベンチュラ/グアヤキル/カヤオ/マタラニ/アリカ/バルパライソ{復航}ロスビロス/コキンボ/アントファガスタ/トコピア/ピスコ/カヤオ/フワチョ/ラユニオン/ロサンゼルス/日本[船]和川丸,祥川丸,聖山丸(用),大元丸(用)

和川丸 Kazukawa Maru (1950)

祥川丸 Sachikawa Maru (1954)
1957.10(昭32)聖川丸以降は北米太平洋岸を抜港してカリフォルニア直航として航海日数を短縮[船]聖川丸
1958.6(昭33)秘露丸からは基隆,香港にも寄港を拡大[船]秘露丸
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