南洋航路 - 大正期 戻る

日本郵船

南洋線 大6.12.28(1917)開設−大9.1(1920)東廻り線と西廻り線に分割
大正3年(1914)10月、日本海軍は独領南洋諸島を占領して軍政を布き翌4年(1915)6月南洋貿易に使用船3隻で日本/南洋諸島間の航路を開設させた。大正6年(1917)日本郵船は海軍からこの航路を委嘱し大正6年(1917)12月28日横濱出航の秋田丸を第1船として使用船4隻で定期航路を開始した。大正9年(1920)1月国際連盟規約により同諸島の統治が日本に委託され大正11年(1922)3月には軍政廃止とともに南洋庁が設置された。これとともに当航路は南洋庁の命令航路となった。横濱を起点とし2ヶ月ないし4ヶ月に1回のサービスとした。

秋田丸
秋田丸 Akita Maru (1916)
南洋東廻り線 大9.1(1920)開設昭和初期
大正9年(1920)1月、海軍省の命令航路として開設。就航船は春日丸で毎月1航海。寄港地は往航横濱/大阪/神戸/門司/サイパン/トラック/ポナペ/クサイ/ヤルート、復航ヤルート/クサイ/ポナペ/トラック/サイパン/横濱。大正11年(1922)4月から南洋庁命令航路となり1隻で2ヶ月1回のサービスとした。

春日丸
春日丸 Kasuga Maru (1898)
南洋西廻り線 大9.1(1920)開設昭和初期
大正9年(1920)1月、海軍省の命令航路として開設。航海度数は1隻が2ヶ月に1回のサービスとした。寄港地は往航横須賀/二見/サイパン/トラック/ヤップ/パラオ/アンガウル、復航アンガウル/パラオ/ヤップ/ウオレア/トラック/サイパン/二見/門司/横須賀。大正期には筑前丸、筑後丸を配船した。

筑後丸
筑後丸 Chikugo Maru (1907)
南洋東西連絡線 大13.4(1924)開設−昭和初期
大正13年(1924)4月開設。春日丸1隻により1月〜3月、月1回の定期サービスとした。寄港地は往航横濱/大阪/神戸/門司/パラオ/トラック/ポナペ/クサイ/ヤルート、復航ヤルート/クサイ/ポナペ/トラック/パラオ/横濱。

大阪商船

南洋線 大5.4(1916)開設−大8.3(1919)南洋線甲線−大15.4(1926)南洋線−昭3(1928)基隆瓜哇線
南洋線 昭10.7(1935)南洋海運へ譲渡
大正5年(1916)4月臺湾総督府命令航路として開設。甲乙2線に分け、甲線は当初新高丸1隻で隔月1回基隆発航、寄港地は厦門/汕頭/香港/マニラ/サンダカン/マカッサ/スラバヤ/サマラン/バタビヤ/新嘉坡/サンダカン/香港/打狗。6月からは蘂取丸が就航。乙線は襟裳丸1隻で隔月1回基隆発航、寄港地は厦門/汕頭/香港/マニラ/サンダカン/新嘉坡/バタビヤ/サマラン/スラバヤ/マカッサ/サンダカン/マニラ/香港/打狗。大正6年(1917)4月には単に南洋線と改称し起点を内地に移して3隻により月1回のサービスとした。寄港地は大阪/神戸/門司/基隆/厦門/香港/マニラ/サンダカン/バタビヤ/サマラン/スラバヤ/マカッサ/サンダカン/香港/打狗/基隆/神戸で漸次寄港地の省略延航があった。大正8年(1919)1月頃には桃園丸、淅江丸、江蘇丸が就航した。同年4月命令更改のため再び甲乙線とし甲線は従来の南洋線とほぼ同じ寄港地と航海数とし、当初はばたびや丸、すらばや丸、桃園丸の3隻が就航した。大 正9年(1920)12月からは起点を横濱とし、大正13年(1924)1月以降はマニラを臨時寄港地に変更しがんぢす丸が就航した。大正14年(1925)5月以降、タワオを臨時寄港地としたが南洋線乙線が廃止となり大正15年(1926)4月以降は南洋甲線を単に南洋線と改称、10月以降タワオを定期寄港地とした。

すらばや丸
すらばや丸 Surabaya Maru (1918)

新高丸
新高丸 Niitaka Maru (1904)

桃園丸
桃園丸 Toyen Maru (1905)
スマトラ線 大7.3(1918)開設−大8.8(1919)廃止
大正7年(1918)3月開設。当初2線とし、1線は3月10日神戸出航の石見丸を第1船として開始し新嘉坡/デリー間に就航。寄港地はポートスウェッテンハム/彼南で週1回のサービとした。もう1線は新嘉坡/パレンバン間を3月12日神戸出航の天地丸が週1回のサービスとした。大正8年(1919)3月1日に新嘉坡/パレンバン間を廃止し天地丸を新嘉坡/デリー線に就航させたが業績不振のため大正8年(1919)8月廃止。
瓜哇盤谷線 大7.3(1918)開設−大15.3(1926)廃止
大正7年(1918)3月末に開設。就航船は福州丸、sho州丸(*1)で毎月2航海。寄港地は盤谷/新嘉坡/瓜哇(バタビヤ・サマラン・スラバヤ)間を往復し暫時盤谷行きを廃止して西貢に寄港した。大正9年(1920)10月から逓信省命令航路となり汽船2隻で3週1航海のサービスとした。寄港地は往航がスラバヤ/新嘉坡/盤谷、復航が盤谷/新嘉坡/バタビヤ/サマラン/スラバヤ。大正10年(1921)6月からsho州丸(*1)に代わり基隆丸が就航、大正12年(1923)1月以降は使用船を新造船でりい丸、めなど丸とした。しかし賃率低下したため逓信省の同意を得て大正15年(1926)3月に廃止。(*1)さんずいに章

でりい丸
でりい丸 Deli Maru (1922)
南洋線乙線 大8.4(1919)開設−大15.4(1926)廃止
臺湾総督府の命令航路として大正8年(1919)5月2日基隆出航の四川丸を第1船として開始。寄港地は打狗/香港/西貢/盤谷、復航が西貢/香港/新嘉坡。使用船は他に雲南丸で2隻により毎月1回のサービスとした。大正8年(1919)12月以降は往航の打狗寄港を廃止、大正10年(1921)下半期以降は復航デリーに寄港した。大正10年(1921)には使用船を新造船貴州丸、武昌丸の2隻に換えた。大正14年(1925)5月には盤谷止まりとなり臨時に新嘉坡、デリーに延航したが補助金の下付廃止に伴い大正15年(1926)3月9日基隆発の江蘇丸を最終船として4月24日に廃止となった。

四川丸
四川丸 Sisen Maru (1918)
南洋自由線 大11.10(1922)開設−昭10.7(1935)南洋海運へ譲渡
大正11年(1922)10月に開設。朝鮮丸、安南丸、江蘇丸の3隻により毎月1回の定期サービスとした。寄港地は横濱/名古屋/大阪/神戸/門司/ジャワ各港/基隆。
西貢盤谷線 大15.9(1926)開設−昭12.9(1937)西貢盤谷線急航線−昭17.5(1942)休止
大正15年(1926)9月開設。江蘇丸と淅江丸の2隻により毎月1回の定期サービスとした。寄港地は往航が大阪/神戸/門司/香港/西貢、復航が高雄/基隆/那覇/鹿児島/門司/神戸/大阪。往航は横濱に回航することがあり、復航は高雄、那覇、鹿児島の寄港を省略することがあった。

南洋郵船組

神戸スラバヤ線 大1.10(1912)開設−昭和初期
大正元年(1912)10月、原田、緒明、板谷の3船主が南洋郵船組を組織し、政府の助成下に神戸/スラバヤ間月1回の定期航路を開設した。寄港地は門司/香港/新嘉坡/バタビヤ/サマラン。使用船は旅順丸(原田)、北都丸(板谷)、萬里丸(緒明)の3隻。大正3年(1914)に改組して南洋郵船株式会社が設立された。

旅順丸
旅順丸 Ryojun Maru (1892)

H.Nakamura
旅順丸は日本郵船が明治後期に輸入した貨客船。明治43年(1910)5月、第2回ブラジル移民輸送に従事し、大正元年に開設された神戸/バタビア定期航路に就航した。原田商行は大正7年(1918)7月1日、原田汽船株式会社と改称された。

南洋貿易

北都丸
北都丸 Hokuto Maru (1896)
内地/南洋群島航路 大4.6(1915)開設−大6.4(1917)廃止
海軍省は大正4年(1915)6月内地/南洋群島間の航路を開設(*1)し、南洋貿易株式会社に受命させた。同社は第八多門丸、南海丸(*2)、及び以智丸の3隻で大正6年(1917)4月まで運航したがその後は日本郵船に運航が委嘱された。

以智丸
以智丸 Ichi Maru (1888)

第八多聞丸
第八多聞丸 Tamon Maru No.8 (1889)
参考:
(*1)定期か不定期かは不詳
(*2)我社各航路ノ沿革(日本郵船 昭7)に記載のトン数(2,100t)に該当する船は見当たらない
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