「石油の一滴は血の一滴」とは,第1次世界大戦のさなか仏大統領クレマンソーが米大統領ウィルソンに石油の重要性を訴えた言葉であるが,近代戦争が石油を大量に消費する兵器で戦われるようになると石油の確保が戦略上の最大の鍵となった.国内に弱小な石油資源しか持たないわが国は,第1次世界大戦後に石油の需要が高まり,また軍事的にも重要性が認識されると大正15年(1926)以降,石油燃料国策確立のための方策が検討され始めたが具体化は遅れ,昭和6年(1931)の満州事変を契機として,この年に重要産業統制法が成立し,ようやく燃料政策の確立が図られることになった. その最初は昭和9年(1934)7月に施行された石油業法である.この法律はフランスの石油業法をほとんど直訳的に真似たもので,石油輸入業,精製業を許可制として一定量の石油を業者に保有させ,政府は価格変更,需要の調整や強制的に買上も出来ることとした.また許可制により乱立や過度の競争を防止するとともに海外の石油業の圧迫から国内業者を保護することを目的としていた.第1次世界大戦後から昭和初年にかけてわが国は深刻な不況に見舞われたが,石油市場は軍需の拡大,消費構造の変化により需要は増加を続けタンカーの必要性も増大した.大正3年(1914)にロータリー式掘削機による掘削を取り入れた日本石油が秋田県の黒川油田で日本最大の自噴井を堀り当て,この年の国内の原油産出は47万キロリットルに達したが,国内産出量はこの年をピークとして徐々に減少に向かった.大戦後の世界的な不況と石油の異常な過剰生産のため,大正9年(1920)ころから外国石油会社は海外市場を求めて日本にも殺到した.なかでもスタンダード石油,ライジングサン石油の両社は東洋における販路獲得のために計画的なダンピングを強行した.このことが国内の不況に拍車をかけ,石油需要が増加しているにもかかわらず石油各社の安売り競争が激化し,このため多くの弱小企業が整理された.このような状況から,特に国内に原油生産の基盤を持たない製油業者は輸入原油精製へと方針を変えていった. 海軍は日清戦争の際に燃料として使用した国内炭の質が悪く,艦艇の性能を十分に発揮できなかった経験から煉炭の製造,調査を開始した.日露戦争後に製造は軌道に乗ったがすでに軍用燃料は液体燃料に移行しつつあった.特に航空機の急速な発達に伴う航空燃料の供給が重要となってきた.明治42年(1909),横須賀に重油槽を設置するとともに,重油の国内運搬用に3,000トン級の給油艦の建造を計画した.この艦は八八艦隊計画による国産初の給油艦として大正5年(1916)に呉工廠にて完成し志自岐丸と命名(後に志自岐と改名)された. 引き続き大正7年(1918)までに劍埼,洲埼をそれぞれ呉工廠と横須賀工廠で竣工させ,大正9年(1920)から同12年(1923)までに10隻の大型の給油艦が建造された.10隻のうち呉工廠で建造された早鞆と横須賀工廠で建造された鳴門を除く8隻は民間の造船所に発注され,川崎造船所で4隻(野登呂,知床,襟裳,穏戸),大阪鐵工所で2隻(鶴見,石廊),横濱船渠で2隻(佐多,尻矢)が建造された.各造船所はこの時に初めて大型タンカーの建造を手がけた.また大正10年(1921)には電気推進研究のために米国のニューヨーク・シップビルディング社に給油艦を発注,建造し神威と命名した.神威はGE社製のターボ発電機と電動機を装備した.これらの給油艦は主に北米カリフォルニアから徳山までの重油の輸送に使用された.
民間におけるタンカー船隊の整備状況をみると,まず神戸の鈴木商店が満州の大豆油を欧州へ輸送するため,傍系の帝國石油(後の旭石油)が播磨造船所において大正10年(1921)に橘丸を竣工させた. 初期のタンカーの船殻は一般の商船と同様に横肋骨式構造であった.この方式は船体の横方向の強度は大きいが,タンカーは船体に一様に油を積み,また二重底を持たない構造のため,船体が大型化してくると縦方向の強度が必要なことがわかってきた.明治41年(1908)に英国人イッシャーウッドが考案した縦通材と特設肋骨を組み合わせた方式は縦強度が大きいばかりでなく材料も節約でき,かつ工期も短くなる利点があり,わが国では大阪鐵工所が製造権と販売権を獲得して同社建造の貨物船に採用していた. 橘丸は船体にこのイッシャーウッド式構造を採用した初の本格的な外航タンカーで,同型船の滿珠丸,干珠丸とともにわが国の近代型タンカーの先駆的な存在とみられている.貨客船として竣工した東洋汽船の紀洋丸は南米航路に就航していたが,火災事故により機関室を焼き,その修理の際に本来のタンカーに改造できるように復旧され,大正10年(1921)5月に本格的なタンカーとして再就航した. 岸本汽船は小倉石油との共同出資で大正15年(1926)7月に油輸送専門の日本タンカー株式会社を設立するとともに,同じ年,英国より購入した糖蜜運搬船をタンカーに改造して光洋丸と命名(後に小倉石油へ移籍,昭和9年に第三小倉丸と改名)し,カリフォルニア原油の輸送を行った.さらに昭和3年(1928)には同型船を購入して瑞洋丸と命名し,横濱船渠において昭洋丸,永洋丸,帝洋丸を新造し,昭和6年(1931)までに全船を就航させている. なかでも後述の海軍の保護政策を受けて建造された帝洋丸は,主機にMANディーゼル2基を備えて最大速力17.53ノットを記録した高速タンカーであった.三菱商事燃料部は大正13年(1924)にアソシエーテッド石油会社と石油の一手販売契約を結び,海軍,日本石油,小倉石油等へ供給する原・重油の輸入量が急激に増大したため社有タンカーを計画し,三菱長崎造船所において同型のタンカー3隻(さんぺどろ丸,さんぢゑご丸,さんるいす丸)を昭和3年(1928)までに竣工させた.さんぺどろ丸はディーゼル主機を搭載したわが国初のタンカーである.本型は船殻構造に横肋骨式を改良したフォスター・キング式を採用している. 個人経営であった小倉石油店は,大正14年(1925)に株式会社組織に改組するとともに原油の輸入に着手した.小倉石油は早くからタンカーの確保に積極的で,三菱商事と同型のタンカー2隻(小倉丸,第二小倉丸)を昭和6年(1931)までに竣工させている. 海軍では大正10年(1921)に山口県徳山の海軍煉炭製造所を徳山燃料廠と改めて石油の精製に乗り出した.この燃料廠を得意先としていた飯野商事は海軍から内航小型タンカーの建造を取り付け,しかも建造資金の調達が困難であることから自社に工作部を設けて苦心の末,昭和3年(1928)12月に進水にこぎつけ,第一鷹取丸と命名した.その後,海軍から特務艦野間(第1次大戦中に英国で急造されたタンカー)の払い下げを受けて修理を行い日本丸と改名して同社初の外航タンカーを取得した. |