日本の油槽船・概説 - 明41(1908)−昭16(1941)昭17(1942)−昭27(1952) 戻る


共同企業株式会社へのタンカー集約
昭和17年(1942)の戦時海運管理令および同施行規則に基づき、わが国の船舶を一元的に統制するために船舶運営会が設立され配船と運航が任された。タンカーは業務の一切を燃料局の裁量に委ねられた。この結果、燃料局は昭和17年(1942)7月に共同企業を船舶運営会の運航実務機関に指定した。 共同企業株式会社は石油の輸入、貯蔵、配分を目的として昭和16年(1941)4月1日に東亞石油協会や東亞燃料工業および日本石油等のわが国主要石油会社の出資により資本金1,000万円で設立された。その最大の特徴は1億6,900万円を限度として国家補償を受け得る国策会社であったことである。輸入原油や国内産出油は総てこの会社に買上られ、調整された特定価格で石油会社に販売された。 昭和17年(1942)5月に共同企業は東亞石油協会を合併して、タンカーの定期用船を開始することとなり、南方石油の買い付け、輸送、保有、配分ならびに価格調整等の強力な統制機関として活躍した。 しかし昭和18年(1943)2月のガダルカナルの敗退以降は戦局が一段と苛烈化し、海上輸送力の増強が必要となり、同年7月には船舶運航体制緊急整備要領の閣議決定を見て船舶運営会の改組と運航実務者の集約が行われた。 さらに同年10月には船舶所有者整備要領が発表され、所有船舶が一定基準に達しない船主が整理統合されることとなり、翌19年(1944)1月に日本石油や丸善石油等各石油会社の所有タンカー13隻は共同企業に集約され、石油各社による自社船・自社貨物主義は全面的に廃棄されるに至った。 集約された各社のタンカーは以下のとおりである。

第一小倉丸
第一小倉丸 Ogura Maru No.1 (1929)
昭和石油からの移籍船舶
鈴木商店系の帝國石油(後に設立された国策会社の帝國石油とは異なる)は大正11年(1922)に旭石油と合併して新たに帝國石油として発足した。昭和17年(1942)に早山石油と新津石油および帝國石油の三社が合併して昭和石油となった。昭和石油からの移籍船は大型船では橘丸と滿珠丸の2隻(干珠丸は昭和5年に海難沈没)で当時すでに船齢23年に達していた。この他に小型の金鈴丸が移籍している。
日本石油からの移籍船舶
日本石油からの移籍船は第一小倉丸、第二小倉丸、力行丸、誠心丸の4隻で、このうち力行丸は石油の取扱量が増えたため昭和12年(1937)に英国のバンクラインから淺野物産を仲買いとして購入された。誠心丸は同じ三菱長崎が建造した三菱商事のぱれんばん丸の同型船である。この他に共同企業に集約されたタンカーは第三小倉丸、八紘丸(共に輸入船)、一宇丸(1TM)の3隻があった。
関東タンカーからの移籍船舶
関東タンカーの前身は岸本汽船が設立した油輸送専門の日本タンカーで、この会社が横濱船渠で建造した永洋丸と関東タンカーが建造した第二永洋丸(1TM)が移籍されている。
丸善石油からの移籍船舶
丸善石油からの移籍船は小型の内航タンカー寳山丸一號、寳山丸二號の2隻である。共同企業からの移籍船舶 共同企業が産業設備営団から割り当てを受けて建造した船のうち天心丸(1TM)と弘心丸(2TM)の2隻は集約時にはすでに竣工済みで、八紘丸(1TL)と第二八紘丸(1TL)および暁心丸(2TM)の3隻が建造中であった。

日本油槽船株式会社の設立
集約されたタンカーを運航するための専業船主として、昭和19年(1944)6月1日に日本油槽船株式会社が設立されることとなった。資本金3,000万円のうち1,460万円は共同企業からの現物出資(力行丸、第一小倉丸、第二小倉丸、滿珠丸、橘丸、永洋丸)の形をとり残り1,540万円は半額払込として共同企業のタンカー7隻(誠心丸、金鈴丸、寳山丸一號、寳山丸二號、天心丸、第二永洋丸、弘心丸)を買収して13隻約104,000重量トンの船隊を所有した。設立後、船隊に加わったのは戦時標準船5隻(八紘丸、第二八紘丸、暁心丸、昭開丸、陽心丸)と拿捕船1隻(安南丸)であった。 昭和18年(1943)以降、タンカーの喪失と南方現業地域に対する爆撃は激しさを加え、内地輸送が困難になったため、軍は南方石油依存を国内生産の奨励に切り替え、南方油田に徴用した石油技術者の大部分を内地に還送させることにした。このうちニューギニアからの500余名は日本郵船の阿波丸に乗船したが、シンガポールから敦賀へ航行中に潜水艦の雷撃を受けて沈没し、同船と運命をともにした。 昭和19年(1944)末にはバリクパパン、スラバヤが放棄され、日本に向かうタンカー3隻を含む最後の船団は昭和20年(1945)3月シンガポールを出港、3月24日に三菱汽船の光島丸(2TL)、飯野海運の富士山丸(2TL)がそれぞれ原油1万6千バレルを積んで辛うじて徳山に入港したのが南方石油輸送の最後となった。

富士山丸
富士山丸 Fujisan Maru (1944)

戦後のタンカー船隊の再建
終戦時に稼働可能なわが国の外航タンカーは在来船では三菱汽船のさんぢゑご丸のみで他の数隻は戦時標準船というありさまであった。国内で必要とされる最小限の石油の確保は在日米軍用として輸送された一部を随時放出する形がとられ、これを各地の港へ運搬するために小型タンカーの稼働が許可されたが、残存した大型タンカーは復員船用の給水タンカーまたは米軍用のステーションタンカーとして使用されているにすぎなかった。運輸省の方針により一時は解体の憂き目を見る予定だった大型タンカーは、回復しつつある国内の石油需要が激増したことや欧州方面の経済復興により日本周辺のタンカーを大西洋に転用するに及んでようやく活躍の場が開けることとなった。 民需石油の不足に対して昭和23年(1948)8月に船舶運営会はGHQの指令により9隻の油槽船(うち3隻は捕鯨母船に改造済)をペルシャ湾バーレンまで重油の積み取りに向かわせた。8月5日、第1船橋立丸(日本水産)が横浜港を出航、これらの油槽船団はスカジャップ旗の下ではあったがペルシャ湾/日本航路に就航した。

日本水産 2隻

橋立丸
橋立丸 Hashidate Maru (1944)

多度津丸
多度津丸 Tadotsu Maru (1946)

飯野海運 2隻

東亞丸
東亞丸 Toa Maru (1944)

大邦丸
大邦丸 Daiho Maru (1944)

極洋捕鯨 1隻

第五山水丸
第五山水丸 Yamamizu Maru No.5 (1945)

三菱汽船 2隻

光島丸
光島丸 Mitsushima Maru (1944)

さんぢゑご丸
さんぢゑご丸 San Diego Maru (1928)

日東汽船 1隻

忠榮丸
忠榮丸 Chuei Maru (1945)

大洋漁業 1隻

第一日新丸
第一日新丸 Nisshin Maru No.1 (1946)
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