集約されたタンカーを運航するための専業船主として,昭和19年(1944)6月1日に日本油槽船株式会社が設立されることとなった.資本金3,000万円のうち1,460万円は共同企業からの現物出資(力行丸,第一小倉丸,第二小倉丸,滿珠丸,橘丸,永洋丸)の形をとり残り1,540万円は半額払込として共同企業のタンカー7隻(誠心丸,金鈴丸,寳山丸一號,寳山丸二號,天心丸,第二永洋丸,弘心丸)を買収して13隻約104,000重量トンの船隊を所有した.設立後,船隊に加わったのは戦時標準船5隻(八紘丸,第二八紘丸,暁心丸,昭開丸,陽心丸)と拿捕船1隻(安南丸)であった. 昭和18年(1943)以降,タンカーの喪失と南方現業地域に対する爆撃は激しさを加え,内地輸送が困難になったため,軍は南方石油依存を国内生産の奨励に切り替え,南方油田に徴用した石油技術者の大部分を内地に還送させることにした.このうちニューギニアからの500余名は日本郵船の阿波丸に乗船したが,シンガポールから敦賀へ航行中に潜水艦の雷撃を受けて沈没し,同船と運命をともにした. 昭和19年(1944)末にはバリクパパン,スラバヤが放棄され,日本に向かうタンカー3隻を含む最後の船団は昭和20年(1945)3月シンガポールを出港,3月24日に三菱汽船の光島丸(2TL),飯野海運の富士山丸(2TL)がそれぞれ原油1万6千バレルを積んで辛うじて徳山に入港したのが南方石油輸送の最後となった. |