小史 - 飛躍期 前頁 次頁 戻る

加州航路(PSW)の増配船投入
加州航路の荷動きの増加に対して増配船4隻が米国連邦海事委員会(FMC)に認可され昭和46年(1971)11月17日に山下新日本汽船と大阪商船三井船舶の共有船あじあ丸(1022TEU)が増配第1船として就航した.昭和49年(1974)3月31日に最終船山新丸(1198TEU)が就航し,邦船4社グループの8隻による平均4日間隔のサービス体制が完了した.増配船による各社の権益が1隻分となったため,あじあ丸は大阪商船三井船舶の単独保有となった.
あじあ丸 Asia Maru
あじあ丸 Asia Maru (1971)

1976.8.18 K.Sato
山新丸 Yamashin Maru
山新丸 Yamashin Maru (1974)

豪州航路のコンテナ化
豪州の国営海運会社Australian National Line(ANL)と川崎汽船がRO/RO船によるコンテナ化を計画し,昭和43年(1968)12月に同盟加入が認められるとESS(Eastern Searoad Service)グループを結成した.日本郵船と大阪商船三井船舶はLO/LO船によるコンテナ化を計画し,後に山下新日本汽船を加えた3社がスペース・チャーター方式でグループ制を採用した.加州航路の経験から1150TEU積のコンテナ船3隻が計画され,第1船箱崎丸(日本郵船)が昭和44年(1969)10月10日,第2船おーすとらりあ丸(商船三井)が同年12月19日にそれぞれ就航した.山下新日本汽船は第3船東豪丸(1012TEU)を日本郵船,大阪商船三井船舶との共有で建造し,昭和45年(1970)5月20日に就航した.本船の運航と船員配乗・船舶管理は山下新日本汽船が担当した.
東豪丸 Togo Maru
東豪丸 Togo Maru (1970)
本航路には他に英国とスウェーデン船主の合弁会社Australia Japan Container Line(AJCL)があり,邦船3社グループはESSグループ,AJCLグループとそれぞれにスペース・チャーター協定を締結した.これにより邦船3社グループはAJCLとの提携でLO/LO船5隻によるウィークリー・サービスを実施することができた.RO/RO船3隻により10日間隔のサービスを開始したESSグループは同盟内シェアの関係でこれ以上の増配ができず,ウィークリー・サービス実現のために邦船3社グループに協力を要請した.邦船3社は協力を決議すると3社共有によるRO/RO船1隻の建造を決定すると共に本船を含めたRO/RO船4隻を対象にESSグループとスペース・チャーター協定を締結した.本船建造は船腹過剰を懸念して一時見合わせられたが昭和48年(1973)10月31日に兵庫丸(655TEU,普通乗用車121台)が竣工し,同日に本航路へ就航した.
兵庫丸 Hyogo Maru
兵庫丸 Hyogo Maru (1973)

北太平洋航路(PNW)のコンテナ化
北太平洋航路(PNW)のコンテナ化に際しては邦船6社が2社ずつ3グループに分かれ各グループで共有船1隻ずつが建造された.山下新日本汽船は大阪商船三井船舶との共有で第3船となる米州丸(1094TEU)を建造し,昭和45年(1970)10月15日に完成とともに就航した.
米州丸 Beishu Maru
米州丸 Beishu Maru (1970)

ニューヨーク航路のコンテナ化
ニューヨーク航路のコンテナ化は復航にコンテナに適した貨物が少ない等の理由から一気にフルコンテナ化へは進まず,邦船社は在来船をコンテナ積載に適するように改装して就航させた.運輸省は同航路のフルコンテナ化に際して邦船社間の協調を強く求め,日本郵船と大阪商船三井船舶は各2隻,山下新日本汽船,ジャパンライン,川崎汽船の3社は各1隻,合計7隻によるスペース・チャーター方式によりウィークリー・サービスとした.山下新日本汽船は東米丸(1620TEU)を建造し,昭和47年(1972)8月19日に完成して第1船として就航した.
東米丸 Tohbei Maru
東米丸 Tohbei Maru (1972)
ウィークリー・サービスの開始後,同航路の荷動きが予想以上に好調であったため増配船が計画され川崎汽船,ジャパンライン,山下新日本汽船3社の共有で八州丸(1730TEU)が昭和51年(1976)12月に就航した.
八州丸 Yashima Maru
八州丸 Yashima Maru (1976)

1985.6.3 神戸沖 - K.Sato

インド・パキスタン・ペルシャ湾航路の船隊強化
山重丸型2隻の就航後,第3船の建造は諸般の事情で延期されていたが,昭和51年(1976)には就航中の2隻の在来型船のリプレースが計画され,翌年12月に若重丸と君重丸が就航して船隊が強化された.山下新日本汽船が新造した重量物運搬船は若重丸型が最後となった.
若重丸 Wakashige Maru
若重丸 Wakashige Maru (1977)

1981.6.5 神戸港

シベリア・ランドブリッジ輸送とナホトカ航路のコンテナ化
日本/欧州・中近東間をシベリア鉄道経由で結ぶ複合一環輸送は従来,コンテナを利用しない個別貨物の輸送であったが,北米航路のコンテナ化と同様なランドブリッジ方式の概念が導入された.試験輸送の実績を経てソ連側へコンテナ船の投入とナホトカ港のコンテナ専用ターミナル設置を要望した.ランドブリッジ輸送開始後,昭和46年(1971)3月にソ連の極東船舶公団(FESCO)が改造コンテナ船を投入させていたが山下新日本汽船は昭和50年(1975)9月に飯野海運との共有による第1船シベリア丸(322TEU)を就航させ,引き続き共有船として,ぷりもりえ丸(423TEU),きょくとう丸(445TEU),おうろら丸(500TEU)が順次就航した.
シベリア丸 Siberia Maru
シベリア丸 Siberia Maru (1975)

油槽船
山下新日本汽船は発足後,計画造船による大型油槽船の建造を積極的に行った.第26次計画造船までは油槽船の建造には荷主の長期積荷保証が必要であった.昭和40年代半ばから船員費の増大によりこれら計画造船方式により建造された長期契約船の採算が悪化していった.そこで昭和44年(1969)から海外用船が実施されるようになった.
宗珠丸 Munetama Maru
宗珠丸 Munetama Maru (1973)

25万重量トン級の油槽船.入港作業中
23次で山下新日本汽船では初のVLCCとして20万重量トン級飛燕丸と康珠丸が建造された.さらに26次では22万重量トン級の光珠丸と日王丸が建造された.光珠丸は荷役効率の向上に重点がおかれ,石川島播磨重工業が開発したセルフストリッピング・システムを採用し揚荷時間を短縮した.
光珠丸 Mitsutama Maru
光珠丸 Mitsutama Maru (1971)

不定期船
鉱石専用船では25次で8万重量トン級の加古川丸と初の11万重量トン級の新幡丸が建造された.加古川丸は山下新日本汽船では初のM0(機関室無人化)船であった.引き続き26次で16万重量トン級の新鶴丸,28次で11万重量トン級の神洋丸が建造された.
新幡丸 Niihata Maru
新幡丸 Niihata Maru (1970)
原油輸送と大西洋地域の鉱石輸送を組合わせるなど輸送の多様化を狙って整備された鉱石/油兼用船は昭和43年(1968)に竣工した玲水丸(23次)以来4年ぶりに16万重量トン級の若鶴丸(27次),山鶴丸(28次)が昭和47年(1972)に相次いで竣工した.若鶴丸は就航後3年間,中東/日本間の原油輸送に従事した.山鶴丸は制御用コンピュータによる運転監視から保守整備に至る一貫した機関部制御システムが初めて採用された.翌昭和48年(1973)には瑞鵬丸(28次)が竣工した.これら3隻の兼用船は同型船で,いずれも共有船であった.引き続き昭和51年(1976)に17万重量トン級の君鶴丸(30次)が竣工している.
若鶴丸 Wakazuru Maru
若鶴丸 Wakazuru Maru (1972)
君鶴丸 Kimizuru Maru
君鶴丸 Kimizuru Maru (1976)
山広丸 Yamahiro Maru
山広丸 Yamahiro Maru (1979)
撒積専用船は6万重量トン級パナマックス型の山広丸が昭和54年(1979)に就航した.
第五日軽丸 Nikkei Maru No.5
第五日軽丸 Nikkei Maru No.5 (1974)
非鉄鉱石専用船として系列会社の玉井商船が日本軽金属の積荷保証を得て建造したボーキサイト専用船第五日軽丸(29次)を共有した.
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