小史 - 石油危機 前頁 次頁 戻る

1970年代の2度にわたる石油危機(オイル・ショック)以降の新造船には省エネ型の合理化船が建造されはじめ,従来の船舶については主機の換装(タービンからディーゼルへ),船体改造,プロペラ効率,機関効率の向上が図られるようになった.

大型油槽船の処分
昭和40年代後半から船員費等諸経費の高騰で社船のコストが計画当時の予想をはるかに上回った.このため不経済船として第19次から23次計画造船により建造された油槽船が昭和50年(1975)以降,順次整理された.山瑞丸(19次),康珠丸(23次),飛燕丸(23次)の3隻は海外売船され,山寿丸(20次)は解体売船された.
山寿丸 Yamaju Maru
山寿丸 Yamaju Maru (1965)

仕組船の買戻し
仕組船の急増に対処するための買戻しについては日本輸出入銀行の緊急輸入外貨貸付制度が適用され山下新日本汽船では昭和54年(1979)に自動車/撒積兼用船を買戻して改造し大英丸と改名した.
大英丸 Daiei Maru
大英丸 Daiei Maru (1976)

仕組船の買戻しにより取得

中東ガルフ航路のコンテナ化
昭和53年(1978)ガルフ航路にシーランド社がフルコンテナ船による盟外配船を開始すると邦船5社(日本郵船・大阪商船三井船舶・川崎汽船・山下新日本汽船・昭和海運)はコンソーシアム Oasis Container Express Lineを結成して対抗し,昭和54年(1979)11月に大阪商船三井船舶のおーすとらりあ丸が第1船として就航した.山下新日本汽船は昭和55年(1980)1月に共有船東豪丸を配船し,本船の就航により山下新日本汽船の主要定期航路は全てコンテナ化された.いずれの船社も豪州航路の大型代替船投入による転配船を就航させた.
東豪丸 Togo Maru
東豪丸 Togo Maru (1970)

原油輸入先の多様化に伴う油槽船の建造
原油供給の多角化に伴うニーズに対応するため中型クラスの油槽船を順次船隊へ加えていった.計画造船では35次(1980)で9万重量トン級の山珠丸と10万重量トン級の日珠丸を建造し,自己資金により建造された3万7000重量トン級の本珠丸を昭和55年(1980)に就航させた.さらに6万重量トン級の中型油槽船まらかいぼ丸が56年(1981)に建造され日本/ベネズエラ間に就航した.
まらかいぼ丸 Maracaibo Maru
まらかいぼ丸 Maracaibo Maru (1981)

日本/ベネズエラ間の原油輸送に就航

不定期船の整備
昭和55年(1980)以降,石炭輸送を主とする撒積専用船坂出丸,山城丸を順次竣工させ,また57年(1982)にはパナマックス型撒積船YOUNG SPIRITを購入し青潮丸と改名して豪州炭,塩等の輸送に就航させた.鉱石/撒積兼用船では瀬戸丸,夕鶴丸,新加古川丸,明石丸,新鷹丸が就航した.
新加古川丸 Shin-Kakogawa Maru
新加古川丸 Shin-Kakogawa Maru (1981)
瀬戸丸 Seto Maru
瀬戸丸 Seto Maru (1980)
木材/撒積兼用船では昭和55年(1980)に外国船GEMINIを購入して山峰丸と改名し北米/日本間の米材輸送に就航させた.しかし本船型の市況回復が当分見込めないためと燃料効率等の採算面から5年後には海外売船された.
山峰丸 Yamamine Maru
山峰丸 Yamamine Maru (1977)

ニューヨーク航路合理化問題と主要航路のコンテナ船のリプレース
ニューヨーク航路は昭和47年(1972)8月にフルコンテナ・サービスが開始されて以来,邦船5社により8隻でウィークリー・サービス体制が確立され,山下新日本汽船では東米丸と共有船八州丸を投入して運営していたが55年(1980)以降のミニランドブリッジと呼ばれる複合一貫輸送の台頭による東岸経由貨物の太平洋岸へのシフトや米国シーランド社(Sea-Land Service, Inc.)の往航同盟脱退に端を発する運賃競争の激化により急速に競争力を失い,また58年(1983)11月から米国連邦海事委員会によって日本船社間の運賃プール制が否認されたために邦船間の競争も激化し始めた.
各社は採算性向上のため就航船の主機を換装する工事を計画し,山下新日本汽船では58年(1983)に東米丸の主機換装工事が実施され,燃料消費量の多いタービンから省燃費型のディーゼルへ切替えることにより燃費の改善が図られた.なお,東米丸の主機換装工事期間には新造コンテナ船新米州丸が臨時的に同航路へ配船された.
東米丸 Tohbei Maru
東米丸 Tohbei Maru (1972)

神戸港
同航路運営の合理化問題は邦船5社間で検討されたが川崎汽船とジャパンラインの離脱によって3社による新体制へと移行することとなった.新体制では3社合計で6隻の大型コンテナ船を投入するが,これらの船はスケールメリットを追及した大型船型(2500TEU)を採用し,さらには本船仕様を出来る限り統一してオペレーションの合理化とコストセーブを計ることとした.このような経緯を経て,山下新日本汽船は第41次計画造船により山隆丸(2568TEU)を八州丸の代替船として建造し,61年(1986)にニューヨーク航路へ就航させた.
豪州航路では就航中の東豪丸の代替船として第35次計画造船により日豪丸(1588TEU)が日本郵船,大阪商船三井船舶との共有で55年(1980)に建造された.加州航路(PSW)では加州丸の代替船として第36次計画造船により新加州丸(1450TEU)が56年(1981)に竣工した.なお同航路の山新丸の代替船として混乗船として運航可能なYAMAAKI MARUがパナマ船籍船として建造された.本船はニューヨーク航路用に建造された山隆丸とほぼ同型である.
続いて北太平洋航路(PNW)の米州丸の代替船として第39次計画造船により新米州丸(1728TEU)が58年(1983)に建造された.
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