關釜連絡航路 - 明治後期 戻る

關釜連絡航路 山陽鐵道(株) 明38.9.11(1905)開設-明39.12.1(1906)逓信省へ移管
明治34年(1901)山陽鐵道の手により山陽線(神戸/赤間關)が開通,明治38年(1905)京釜鐵道線が釜山から京城まで延長されたので山陽鐵道は山陽線と京釜線の連絡運輸を計画し傍系の山陽汽船が三菱長崎造船所にわが国最初の大型鉄道連絡船を2隻発注した.壹岐丸型の就航により下關/釜山間122浬を11時間半で運航,これにより東京/京城間を60時間で旅行できるようになった.
1905.9.5(明38)山陽鐵道,壹岐丸を受領

壹岐丸 Iki Maru (1905)
鐡道省に移籍後の壹岐丸
1905.9.11(明38)下関出航の壹岐丸により関釜航路開始
1905.10.26(明38)第2船對馬丸受領
1905.11.1(明38)對馬丸の就航により夜航便が毎日運航となる
1906.11.27(明39)山陽鐡道は山陽汽船を買収
1906.12.1(明39)政府は山陽鐡道を買収
關釜連絡航路 逓信省 明39.12.1(1906)山陽鐵道から継承大正期昭和初期-昭20.6.20(1945)廃止
国有後の明治40年(1907)の旅客輸送量は11万人余であり,その後毎年7-8%上昇したため,壹岐丸型2隻では輸送量に対応できず,明治40年(1907)8月以降,用船による運航を開始した.
曾下山丸と薩摩丸は船型,速力や設備面に問題があるため帝國海事協會の義勇艦うめが香丸とさくら丸の両船をそれぞれ明治44年(1911)1月20日と4月1日に裸用船としてそのつど曾下山丸と薩摩丸を解用した.なお明治45年(1912)6月15日から欧亞連絡の急行便を開始したのでうめが香丸とさくら丸をこれに充当した.
1906.12.1(明39)逓信省は山陽鐵道から汽船12隻と岡山/高松,尾道/多度津,宮島/厳島,下關/門司,下關/釜山航路を継承[船]壹岐丸,對馬丸
1907.8.1(明40)[航]日1回
1907.8(明40)曾下山丸を用船
1908.4.1(明41)草梁/釜山間の営業が開始され,釜山/新義州間に直通列車が運転されるとともに新たに昼航便を隔日運航
1908.4.27(明41)薩摩丸により昼夜各1便を運航
1908.4(明41)薩摩丸を用船[船]薩摩丸

薩摩丸 Satsuma Maru (1884)
1912.6.15(明45)欧亞連絡急行便を開始[船]さくら丸,うめが香丸

うめが香丸 Umegaka Maru (1909)
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