- 国有後の明治40年(1907)の旅客輸送量は11万人余であり,その後毎年7-8%上昇したため,壹岐丸型2隻では輸送量に対応できず,明治40年(1907)8月以降,用船による運航を開始した.
曾下山丸と薩摩丸は船型,速力や設備面に問題があるため帝國海事協會の義勇艦うめが香丸とさくら丸の両船をそれぞれ明治44年(1911)1月20日と4月1日に裸用船としてそのつど曾下山丸と薩摩丸を解用した.なお明治45年(1912)6月15日から欧亞連絡の急行便を開始したのでうめが香丸とさくら丸をこれに充当した.
1906.12.1 | (明39) | 逓信省は山陽鐵道から汽船12隻と岡山/高松,尾道/多度津,宮島/厳島,下關/門司,下關/釜山航路を継承[船]壹岐丸,對馬丸 | 1907.8.1 | (明40) | [航]日1回 | 1907.8 | (明40) | 曾下山丸を用船 | 1908.4.1 | (明41) | 草梁/釜山間の営業が開始され,釜山/新義州間に直通列車が運転されるとともに新たに昼航便を隔日運航 | 1908.4.27 | (明41) | 薩摩丸により昼夜各1便を運航 | 1908.4 | (明41) | 薩摩丸を用船[船]薩摩丸 | 1912.6.15 | (明45) | 欧亞連絡急行便を開始[船]さくら丸,うめが香丸 |
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