南米航路 - 明治後期 戻る

東洋汽船

南米西岸航路 明38.12(1905)開設大正期昭和初期
東洋汽船はPacific Mail社との契約により桑港線に新船を配する場合は日本丸型を転配せざるを得なかった。調査の結果、南米が有望であり用船GLENFARG(3,647G/T,1894建造)を就航させた。明治39年(1906)この航路に東洋汽船が政府から運航を委託した笠戸丸(当時海軍省所属)が使用された。開設当初は復航貨物のチリ硝石がまだ国内に需要が少なかったため積み荷としては期待できず、ペルーが中国人の入国に課税をして制限を行ったため3等客が減り、また南米諸国は石炭が高価なうえ検疫等の規則が苛酷であって船費が増大したので毎回多額の損失金を出した。 明治39年(1906)末にはGLENFARGを解傭して明治40年(1907)末にカザリンパークを用船して1航海させたがチリ政府の日本船拒絶や日本政府の南米移民制限などの影響により本航路を一時中止した。翌明治41年(1908)に皇国殖民会社社長水野龍の依頼により笠戸丸でブラジルへ最初の移民を運んだ。笠戸丸はその後、大阪商船の西航南米線に就航し同社の南米航路の就航第1船となった。

笠戸丸
笠戸丸 Kasato Maru (1900)

H.Nakamura
明治42年(1909)4月から桑港線からの転配船亞米利加丸、香港丸と満州丸の3隻により定期航路を再開した。ペルー、チリ両政府の中国人排斥により他社船の配船がなく東洋汽船社船の独占のような状態であったという。翌明治43年(1910)には遠洋航路補助法による特定航路に指定され補助金を受けることとなった。また上期には竣工間もなく油槽船から貨客船に改装された紀洋丸が就航した。亞米利加丸が船齢により同航路使用が難しくなったので翌明治44年(1911)に大阪商船へ売却され、その代替として油槽船武洋丸を紀洋丸と同様に貨客船へ改装して明治43年下期から南米線へ就航させた。

紀洋丸
紀洋丸 Kiyo Maru (1910)
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