鉄道連絡航路 - 大正期 戻る

靑凾航路 鐵道省 明41.3.7(1908)開設大正期昭和初期-太平洋戦争-戦後占領期-海運再建期-海運集約期
第1次世界大戦の勃発に伴う船腹の不足は当時輸送力が逼迫していた本航路にも海上貨物の鉄道への転嫁となって大きな影響を及ぼし始めた.このような状況から鐵道省は北海道,樺太方面の開発の進展による本航路の重要性に鑑み,輸送方式の根本的な改革を実施した.既に下関/小森江間で好成績をおさめていた貨車航送の方式を本航路にも取り入れるため旅客輸送を兼ねた貨車渡船4隻を計画し,大正10年(1921)に浦賀船渠に2隻,翌大正11年(1922)には三菱長崎造船所に2隻発注した.第1船翔鳳丸は大正13年(1924)5月21日に就航,靑森/凾館間を4時間半で運航した.
引き続いて貨車を専門に航送する純貨車渡船を計画したが関東大震災の発生により実施が遅れ,大正14年(1925)10月に横濱船渠に1隻発注,さらにこれを改良した貨車渡船を昭和4年(1929)6月に川崎造船所に1隻発注した.
1924.5.21(大13)新造船客載車輌渡船翔鳳丸就航.5/3-5/4芝浦で一般公開

翔鳳丸 Shoho Maru (1924)
1924.10.11(大13)新造客載車輌渡船津輕丸就航.

津輕丸 Tsugaru Maru (1924)
1926.12.12(大15)新造船第一靑凾丸就航

第一靑凾丸 Seikan Maru No.1 (1926)
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