中国航路 - 明治後期 戻る

内地/中国方面

横濱上海線 日本郵船(株) 明治前期明治後期大正期-昭14.8(1939)東亞海運へ出資
日本郵船発足時の命令書の期限終了に伴い明治33年(1900)7月,逓信省命令航路として使用船3隻により週1回の定期航路となる.
1900.10(明33)逓信省命令航路[船]西京丸,神戸丸,長門丸[命]1900.10(明33)~1905.9(明38)
1902.10.20(明35)逓信省より弘濟丸を神戸丸に変更許可
1903.9(明36)~1903.12(明36)迄[港]横濱/神戸/門司/長崎/上海[船]博愛丸,弘濟丸,山口丸,横濱丸(補助船)

弘濟丸 Kosai Maru (1899) 日露戦争中の弘濟丸.ファンネルマークに注意
1903.12.29(明36)逓信省より山口丸を神戸小樽線へ転配,代替船として春日丸の認可
1912.4(明45)逓信省命令航路[港]横濱/神戸/門司(下関)/長崎/上海[航]年104回以上[命]1912.4(明45)~1915.3(大4)
神戸上海線 日本郵船(株) 明31.11(1898)開設-明31.7(1898)休止-明36.9(1903)再開-明37.1(1904)休止-明39.12(1906)再開-
明40.3(1907)休止明42.8(1909)上海線命令附属線
私設航路として開設.休止と再開を繰り返したが明治42年(1909)8月,上海線命令附属線となった.
1898.11(明31)[港]神戸/門司/上海[航]1ヶ月1回~2回[船]三河丸
1903.9(明36)[港]神戸/大阪/神戸/門司/上海[航]週1回[船]新潟丸,立神丸

新潟丸 Niigata Maru (1903)
1909.6(明42)私設航路として再開[港]{往航}神戸/長崎/上海{復航}上海/神戸[航]2週1回[船]新潟丸
1909.8(明42)補助受命[港]{往航}神戸/長崎/上海/(門司 明44.4以降){復航}上海/神戸/(門司)[航]2週1回[船]山口丸
神戸北清線 日本郵船(株) 明32.9(1899)開設大正期-昭和初期-太平洋戦争
使用船2隻により2週1回の定期サービスとした.
1899.9(明32)[港]神戸/下関/芝罘/大沽/牛荘,復航は芝罘[航]2週1回[船]2隻
1900.10(明33)逓信省命令航路[船]仙臺丸,高砂丸,三河丸[命]1900.10(明33)~1905.9(明38)
1902.3.4(明35)逓信省より三河丸を神戸小樽線に転配に伴い立神丸の編入許可[船]仙臺丸,立神丸
1902.3.19(明35)就航中の仙臺丸が沈没[船]立神丸
1902.3.25(明35)仙臺丸の代替船として相模丸使用決定[船]立神丸、相模丸
1903.12(明36)[船]芝罘丸,營口丸,高砂丸

芝罘丸 Chifoo Maru (1903)
1912.4(明45)逓信省命令航路[港]神戸/門司(下関)/天津(大沽)/牛荘[航]年45回以上[船]芝罘丸,營口丸,高砂丸[命]1912.4(明45)~1915.3(大4)
神戸韓国北清線 日本郵船(株) 明33.10(1900)開設-大正期-昭和初期
逓信省命令航路として開設.
1900.10(明33)[航]4週1回[船]玄海丸
1900.10(明33)逓信省命令航路[命]1900.10(明33)~1905.9(明38)
1901(明34)自由船を増配[航]4週2回
1903.12(明36)[船]大連丸,山東丸

大連丸 Dairen Maru (1875)
1904(明37)[港]神戸/門司/長崎/釜山/仁川/芝罘/大沽/牛荘または神戸/門司/長崎/釜山/仁川/芝罘/旅順口/大沽/牛荘
口之津/上海航路 三井物産(株) 明治前期明治後期-大12.1(1923)廃止
明治36年(1903)4月三井物産は船舶部を門司市に設置.
1898.3.1(明31)船舶部を神戸に移転し業務開始
1906.10(明39)愛宕丸,内港で上海向け石炭積取
1909.4(明42)三池港築港工事完成
門司香港線 平田恆太郎 明37(1904)-大正期-昭和初期-太平洋戦争
編集中.
1904(明37)石炭[港]門司/香港[船]目尾丸

目尾丸 Shakanoo Maru (1883)
南支那航路
淡水香港線 大阪商船(株) 明32.4.1(1899)開設-大4.4(1915)基隆香港線-昭14.10(1939)東亞海運に譲渡
臺灣総督府の命令航路として開設.
1899.4.1(明32)[港]淡水/厦門/汕頭/香港[航]週1回[船]隅田川丸,舞鶴丸
1903(明36)上半期より毎月5航海(内1回は自由航海)[航]月5回
1905(明38)4隻に増便[船]隅田川丸,舞鶴丸,大仁丸,大義丸

大仁丸 Daijin Maru (1900) H.Nakamura
安平香港線 大阪商船(株) 明33.4.5(1900)開設-明40.4(1907)打狗香港線と改称-明44.4(1911)打狗廣東線と改称
臺灣総督府の命令航路として開設.
1900.4.5(明33)[港]安平/厦門/仙頭/香港[航]隔週1回[船]安平丸
1907.4(明40)命令更改により打狗へ延航し打狗香港線と解消[船]汽船1隻
北支那航路
天津経過神戸牛荘線 大阪商船(株) 明32.9.11(1899)開設-明33.7(1900)北清事変のため休航
編集中.
1899.9.11(明32)[港]門司/天津[航]3週1回[船]舞子丸
1900.7(明33)以降,北清事変のため休航
芝罘経過神戸牛荘線 大阪商船(株) 明32.9.25(1899)開設-明33.7(1900)北清事変のため休航
編集中.
1899.9.11(明32)[港]神戸/門司/芝罘/牛荘[航]3週1回[船]打狗丸
1900.1.31(明33)打狗丸,長崎県の江ノ島魚瀬で座礁,委付
1900.7(明33)以降,北清事変のため休航
神戸北清線 大阪商船(株) 明35.2.26(1902)開設-明38.3.3(1905)大阪北清線-明39(1906)下半期に廃航
北清事変のため休航していた天津経過神戸牛荘線及び芝罘経過神戸牛荘線を神戸北清線と改称して再開.
1902.2.26(明35)[港]神戸/門司/芝罘/天津/牛荘[航]週1回[船]盛航丸他2隻
1904(明37)日露戦争期間[船]用船1隻
1905.3.3(明38)大阪延航に伴い大阪北清線と改称[航]月4~5回[船]汽船4隻
1906(明39)下半期に牛荘方面の出荷減少により廃航
大阪天津線 大阪商船(株) 明39.2.25(1906)開設大正期昭和初期
明治39年(1906)2月25日大阪出航の大信丸を第1船として開始.
1906.2.25(明39)大阪出航の大信丸を第1船として開始.冬季結氷中は休航.[港]神戸/門司/芝罘[航]月3回[船]大信丸,大智丸

大智丸 Daichi Maru (1905)
1906(明39)3隻に増便[航]月4~5回[船]大信丸,大智丸,温州丸
1908.11.5(明41)以降,神戸/門司を連絡地として國有鐵道と船客,手小荷物の船車連絡を開始
滿州航路(大阪大連線) 大阪商船(株) 明38.1.14(1905)開設大正期昭17.5(1942)船舶運営会へ移管
明治38年(1905)1月旅順開城と共に満州開発の先駆として舞鶴丸を第1船として開設.その後租借地関東州の経営と満州の開発及び滿鉄事業の隆盛とともに日本/大連間の荷客は激増し,航路の重要性が増したため,明治40年(1907)には新造船嘉義丸,払い下げ船天草丸,さらに明治44年(1911)より臺中丸,臺南丸を配船した.
1905.1(明38)[航]週2回[船]舞鶴丸
1905(明38)下半期[船]舞子丸,基隆丸,安平丸
1906.1(明39)~4月,当航路用新造船2隻就航[船]開城丸,鐵嶺丸

開城丸 Kaijo Maru (1906) 鹿児島港 H.Nakamura
1906.4(明39)逓信省命令航路[船]大義丸,大仁丸
1907(明40)[船]嘉義丸,天草丸
1911(明44)[船]臺中丸,臺南丸

中国国内

大連上海線 南滿洲鐵道(株) 明41.8.10(1908)開設大正期昭和初期-太平洋戦争
日露戦争後,南滿洲鐵道(株)が上海と欧州の連絡をとるために開設した航路.当初の就航船は日本郵船からの用船2隻が就航.無線電信装置により航海中も陸上との連絡が可能と当時の広告にある.
1908.8.10(明41)[港]大連/上海[航]週2回[船]西京丸(用),神戸丸(用)

神戸丸 Kobe Maru (1888) H.Nakamura
長江航路
長江航路図長江航路略図

延長5,000哩に及ぶ長江(揚子江)は沿岸に上海,南京,漢口,宜昌,重慶など13の貿易港がある.日清戦役後に邦船で最初に進出したのは白岩龍平が創設した大東新利洋行であった.
揚子江航路
日清汽船の長江航路を参照.
上海蘇州線 大東新利洋行 明29.5(1896)開設-大正期-昭和初期
明治31年(1898)9月大東汽船合資に継承,さらに明治33年(1900)4月大東汽船(株)に継承された.
1903.5.9(明36)逓信省より澄源丸を上海杭州線へ転配し清江丸を使用許可
1903.7(明36)逓信省命令航路[港]上海/蘇州[命]1903.7(明36)~1904.3(明37)
上海杭州線 大東新利洋行 明30.1(1897)開設-大正期
明治31年(1898)9月大東汽船合資に継承,さらに明治33年(1900)4月大東汽船(株)に継承された.
1903.5.9(明36)逓信省より就航中の新利丸を配船から外す許可
上海漢口線 日本郵船(株) 明36.6.15(1903)開設明40.3(1907)日清汽船に譲渡
長江航路開設の機会をうかがっていた日本郵船は明治36年(1903)石油商の英人ジョージ・マクベーン(George McBain)が経営する長江航路(上海/漢口,禪臣洋行取扱)及び付属する船舶,地所,建物等一切を買収した.
1912.4(明45)逓信省命令航路[航]年12回以上[船]華利,萃利[命]1912.4(明45)~1915.3(大4)
上海漢口線 大阪商船(株) 明32.1.1(1899)開設明40.3(1907)日清汽船に譲渡-昭和初期-昭14.9.1(1939)東亞海運へ出資
逓信省命令航路として開航.
1898.1(明31)逓信省命令航路[命]1898.1(明31)~1907.12(明40)
1899.1.1(明32)[港]鎮江/蕪湖/九江また通州/江陰/天星橋/儀徴/南京/大通/安慶/武穴/黄石港/黄州[航]月6回[船]大井川丸,天龍川丸

大井川丸 Oigawa Maru (1897) H.Nakamura
1900.9(明33)揚子江航路用に建造した浅喫水型船型の大利丸,大亨丸に入替[船]大利丸,大亨丸
1901.10(明34)使用船3隻で南京を寄港地に加える[航]週2回[船]大利丸,大亭丸,大貞丸
1905.7(明38)[航]月12回[船]大利丸,大亭丸,大貞丸,大福丸
1907.9(明40)日清汽船へ航路とともに譲渡
漢口宜昌線 大阪商船(株) 明32.5.2(1899)開設明40.3(1907)日清汽船に譲渡
編集中.
1899.1(明32)逓信省命令航路[命]1899.1(明32)~1907.12(明40)
蘇州杭州線 大東汽船(株) 明34.4(1901)開設-大正期
編集中.
1901.12.21(明34)逓信省より保安丸使用の許可
蘇州鎮江航路 大東汽船(株) 明35(1902)開設-大正期-昭和初期
編集中.
上海漢口線 日清汽船(株) 日本郵船 明36.6(1903)開設-明40.3(1907)日清汽船に譲渡-大正期-昭和初期-
昭14.9.1(1939)東亞海運へ出資
日清汽船創立時の上海/漢口線の就航船は日本郵船と大阪商船から継承した計6隻.
1907.4(明40)逓信省命令航路[港]上海/鎮江/南京/蘇湖/九江/漢口[命]1907.4(明40)~1912.3(明45)
1912.4(明45)逓信省命令航路[航]年196回以上[命]1912.4(明45)~1915.3(大4)

岳陽丸 Gakuyo Maru (1907)

大亨丸 Tahung Maru (1900)
漢口宜昌線 日清汽船(株) 大阪商船 明32.5.2(1899)開設-明40.3(1907)日清汽船に譲渡大正期-昭和初期-
昭14.9.1(1939)東亞海運へ出資
大阪商船からの継承航路.
1907.4(明40)[港]漢口/沙市/宜昌[航]月4~6回[船]大亨丸,大元丸[命]1907.4(明40)~1912.3(明45)

大元丸 Tayuen Maru (1899)

大亨丸 Tahung Maru (1905)
1912.4(明45)逓信省命令航路[航]年12回以上[命]1912.4(明45)~1915.3(大4)
漢口湘潭線 日清汽船(株) 湖南汽船 明36.10(1903)開設-明40.3(1907)日清汽船に譲渡-大正期-昭和初期-
昭14.9.1(1939)東亞海運へ出資
本航路は湖南汽船からの継承航路で武陵丸と江丸Yuen Kiang Maruの2隻により冬季と減水期を除き月8航海のサービスとした.湖南汽船は明治35年(1902)5月に漢口/湘潭間の航路経営を目的として設立された.
1912.4(明45)逓信省命令航路[航]年12回以上[命]1912.4(明45)~1915.3(大4)

武陵丸 Woo Ling Maru (1906)
上海天津線 日本郵船(株) 明32.10(1899)開設-明35.11(1902)廃止
北支那方面貿易発達に備え自営航路として開設.
1895.1.27(明28)上海天津線開設以前に肥後丸,北海丸の2隻大連湾定期航海許可[船]肥後丸,北海丸
1899.10.28(明32)第1船玄海丸上海出航[港]上海/芝罘/天津[航]週1回[船]玄海丸,肥後丸
1900.6(明33)北清事変により休航
1902.3(明35)再開[船]玄海丸,肥後丸
1902.11(明35)発達の見込みが乏しいため結氷期以降廃止
芝罘各港間 在芝罘日本領事館 明39.1(1906)本邦船舶営業状況
在芝罘日本領事館による邦船航行の報告[資3746]は船名と登簿トン数のみのため該当船は必ずしも確定していない.
1906.1(明39)~5月迄[港]芝罘/大連[船]宗信丸,神龍丸,福生丸,小野丸,第十共同丸,東照丸,萬成源丸,第十五永田丸,鷹取丸,第二盛運丸,錦龍丸,土海丸,勢運丸,蓬莱丸,狹貫丸,第八永田丸
1906.1(明39)~5月迄[港]芝罘/旅順[船]第二福山丸,惠比須丸,金城丸
1906.1(明39)~5月迄[港]芝罘/牛荘/泰皇島[船]土海丸,日進丸,錦龍丸,萬成源丸,都丸,國見丸,十四永田丸

中国/外地方面

香港馬尼拉航路 東洋汽船(株) 明34.12.5(1901)開設-明37.2(1904)廃止
海外船社の独壇場であったマニラ航路へ日本丸クラスの予備船として購入したろひら丸とろせった丸を配船して月2航海半のサービスで開始した.両船は同型船で購入時既に船齢20年余りの中古船であった.東洋汽船は関係する荷主の要望により当航路を開始したが年々競争が激化していった.日露戦争に両船は病院船として徴用され当航路は廃止となった.
1901.12.5(明34)ろせった丸就航

ろせった丸 Rosetta Maru (1880)
1902.4(明35)広東地方でコレラ発生による検疫,貨物輸入禁止等により大減益となる
1902(明35)ろひら丸就航[航]5日毎両港発航[船]ろせった丸,ろひら丸
1904.2.2(明37)ろひら丸日露戦役のため徴用

ろひら丸 Rohilla Maru (1880) 陸軍病院船時期のろひら丸
1904.2.8(明37)ろせった丸日露戦役のため徴用
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