水産業 - 明治後期大正期昭和初期-太平洋戦争-戦後占領期海運再建期海運集約期 戻る

母船式捕鯨漁業の再開
戦後の食糧事情救済のためGHQは昭和21年(1946)に小笠原近海の捕鯨を許可したが陸上基地の使用を認めなかったため母船式による捕鯨が大洋漁業によりおこなわれた.同年には南氷洋捕鯨も許可されたがこれにはイギリス,ノルウェー,オーストラリア,ニュージーランドが猛烈に反対したためGHQは各国の監督官を乗船させることを条件とした.大型捕鯨母船は太平洋戦争により喪失したため続行船を改造するなど漁期に間にあわせるため関係者の多大な努力により同年11月に2船団が出漁することができたのである.

南氷洋捕鯨船団

南氷洋捕鯨 日本水産(株) 昭21.11.7(1946)出漁-海運再建期-海運集約期
南氷洋捕鯨は戦後の食糧難に対応するためGHQからいち早く出漁許可がなされた.日本水産は3隻の捕鯨母船を戦禍により失ったため残存した1TL型戦標船橋立丸を急遽捕鯨母船に改造,1ヶ月後の昭和21年(1946)11月7日戦後初の南氷洋捕鯨船団として出漁した.
1946.1(昭21)多度津丸購入,南氷洋捕鯨塩蔵船に改造[船]多度津丸

多度津丸 Tadotsu Maru (1946)
橋立丸と同じ川崎重工艦船工場で建造された1TL型戦標船
1946.8.6(昭21)GHQより第1次南氷洋捕鯨出漁許可
1946.10.15(昭21)橋立丸,捕鯨母船に改造
1946.11.7(昭21)第1次橋立丸船団(昭和21年度)大阪港出航[船]橋立丸,多度津丸,捕鯨船興洋丸他5隻

橋立丸 Hashidate Maru (1944)
戦後最初の南氷洋捕鯨に大阪港を出港する橋立丸.
本船はこの後,何度かの改造により外観が変わっている
1947.11(昭22)第2次橋立丸船団(昭和22年度)出漁(昭22.3迄)[船]橋立丸,捕鯨船6隻
南氷洋捕鯨 大洋漁業(株) 昭21.11.24(1946)出漁-海運再建期-海運集約期
日本水産と共にGHQから南氷洋捕鯨出漁許可を得た大洋漁業は三菱長崎造船所で建造中だった3TL型戦標船大欖丸を購入して捕鯨母船に改造を決定した.漁期の関係で2ヶ月の短期工事となったが第一日新丸と改名されて竣工した.
1946.11.24(昭21)第1次第一日新丸船団(昭和21年度)出漁[船]第一日新丸,捕鯨船6隻

第一日新丸 Nisshin Maru No.1 (1946)
1947.11(昭22)第2次第一日新丸船団(昭和22年度)出漁[船]第一日新丸,捕鯨船6隻
鯨工船第三圖南丸の再生 日本水産(株) 昭25.4.29(1950)-昭26.10(1951)
トラック島で横転沈没状態にあった元日本水産の鯨工船第三圖南丸の浮揚再生作業は播磨造船所に依頼された.現地は赤道直下で陸上基地のない引揚げ作業は困難を極めたが浮揚に成功し途中台風に遭遇しながらも内地まで曳航された.サルベージ費用は2億5千万円,再生工事は6か月の短期間であった.
1950.4.29(昭25)鯨工船第三圖南丸引揚げ調査のため播磨造船所の君島丸呉出航
1950.10.1(昭25)引き揚げ作業のため君島丸,玉榮丸呉出航[船]君島丸,玉榮丸(日本水産)
1950.10.21(昭25)引揚げ作業開始
1951.3.3(昭26)完全浮揚
1951.4.15(昭26)相生湾到着,播磨造船所にて改造工事着手

第三圖南丸 Tonan Maru No.3 (1938)
昭和26年(1951)4月,玉榮丸と君島丸に曳航されて相生沖に到着した第三圖南丸.本船を内地まで曳航し修理再生することは極めて困難な作業で,日本水産と播磨造船所の社運をかけた難事業であったと両社社史にある.
1951.10.10(昭26)公試運転
1951.10.17(昭26)改造完成,圖南丸と改名

圖南丸 Tonan Maru (1938)
復旧修理成った圖南丸

北洋捕鯨船団

北洋捕鯨 3社共同経営 昭27.7.10(1952)出漁海運再建期
昭和27年(1952)対日講和条約の発効を待って戦後初めて1船団による北洋捕鯨が許可された.日本水産,大洋漁業,極洋捕鯨の3社共同経営により極洋捕鯨のばいかる丸を母船として横浜港を出航.
1952.7.10(昭27)第1次ばいかる丸船団(昭和27年度)横浜港出航[船]ばいかる丸,信濃丸,捕鯨船4隻(日水2,大洋1,極洋1)

ばいかる丸 Baikal Maru (1921)
鯨工船に改造後の姿
1952.9.29(昭27)帰港
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